☆正宗と村正
日本刀には色々な話があります。中でも名工として名高い正宗と妖刀を作ったとして知られる村正は有名です。また、この二人には次のような話があります(引用しました)。
“村正の打つ鎚の音だけで只者ではないと正宗は見抜いた。そして、正宗のもとで鍛刀に励む村正だが、あまりにも斬れ味に拘るところがあった。そこで村正の実力を高く評価し、将来を考えて蒙を開くことにした。互いの鍛えし刀を川の流れに刃先が上流になるように向けて浸す。水面を流れる木の葉が正宗の刀は避けていくのに、村正の刀には逆に吸い寄せられ真っ二つとなった。正宗は「真の名刀とは斬れるだけではいけない。危難を回避させる力こそが肝要なのだ。斬れ味にこだわる心が邪気となって斬らなくても良いものまでを斬ってしまうのだ」と村正に告げ諭した。しかし村正は「斬れることこそが刀の本質、自分はあくまでもこの道を追い求める」と言い張って師匠のもとを去っていった。その後村正は持った人間の心の邪気を引き出し、人を斬らずには収まらない妖刀をつくりあげた・・・・・。”
面白い話しですが、これは全くの作り話です。そもそも二人が活躍した年代を見ても80年以上の開きがあります。さらに、活躍した場所も鎌倉と美濃でちょっと離れています(行き来することはできますが)。
ところで、徳川家康の祖父清康は村正で殺害され、父広忠も村正で斬りつけられ、さらには長男信康も村正で介錯されたということで、家康に忌み嫌われ、とうとう徳川幕府の禁忌にあったそうです。そのため、村正が斬れ味を良くするのに魔力を用いたなどの噂が現れ、妖刀とされるようになったそうです。
ところで、そのためかどうかは分かりませんが、幕末には倒幕を目指す志士たちは好んで村正を愛用するようになったと言われています。