☆大塩平八郎
結構有名な人物と思います。本によっては「明治維新の先駆けをした」などと記されていたりします。
寛政5(1793)年、大坂天満に生まれるのですが、幼いときに父が死んだので祖父に育てられました。また、与力見習として出仕し、文政元(1818)年に家督を継ぎ大坂東町奉行所与力になりましたが、その後に私塾洗心洞を開いて門人の指導にあたっています。
ところが、文政12(1829)年に東町奉行・矢部駿河守定謙より不正無尽の探索を命じられるという事件が起こります。しかし、その活躍により大坂西町奉行所与力・弓削新右衛門が逮捕されました。また、その後も活躍は続き、翌年には破戒僧の摘発などを行い、一躍その名が広まりました。しかしその直後に辞職しています。一説には西町奉行所からの妬みや反感を買っていたとされています。
そしていよいよですが、天保7(1836)年、天保の大飢饉の影響が大坂にも表れてきます。平八郎は奉行所に難民救済を直訴するのですが取り上げられず、私財を売り払い自ら窮民の救済に努めました。さらにはその翌年、難民救済を目的に一部の幕閣関係者による不正汚職の告発するため水戸藩主・徳川斉昭、大学頭・林述斎、筆頭老中・大久保忠真宛てに密書を送り、「救民」と「五三の桐」の紋旗を掲げて挙兵します。これが武士や貧農などの同志ら300人とともに起した「大塩平八郎の乱」でした。さすがにその勢いは凄まじく豪家・米穀商などを襲撃し、大坂全体の約四割を焼き払ったそうですが、幕軍にわずか半日で鎮圧され、敗走しています。
そして、平八郎親子は幕閣関係者の告発による動きを期待して潜伏を続けていたのですが何ら動きはないまま、とうとう発見されてしまいます。覚悟を決め息子格之助の介錯をし、平八郎は爆薬で自害しました。しかし、その遺体は平八郎本人と断定できるものでなかったので、平八郎生存の噂が絶えなかったそうです。また、この事件の影響で、直後から各地で蜂起があいついでいます。
ちなみに三通の密書は、配達途中で病を患った飛脚の代理人に託されるのですが、届けられることなく伊豆山中に棄てられていたそうです。