晴明伝説・民間信仰・音楽・漫画アニメ

陰陽師★瀬織津

自分の好きを表現し、具現化するところ

『平家物語』に見る陰陽道 5

その他

○反閇
(巻第三 付 公卿揃への事)p138

 七人の陰陽師(おんやうじ)參って、千度の御祓仕る。その中に、掃部頭(かもんのかみ)時晴(ときはる)と云ふ老者あり。所從なども乏少(ぼくせう)なりけるが、餘りに人多く參りつどひ、筍(たかんな)をこみ、稻麻竹葦(たうまちくゐ)の如し。「役人ぞ、開けられ候へ」とて、大勢の中をおし分けおし分け參る程に、いかがはしたりけん、右の沓(くつ)を踏み脱がれて、そこにてちつと立ち徘徊(やすら)ふが、あまつさへ冠(かぶり)をさへ突き落されて、さばかりの砌(みぎり)に、束帶(そくたい)正しき老者(ろうしや)が、髻(もとどり)放して練り出でたりければ、若き公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)はこらへずして、一度にどつとぞ笑はれける。陰陽師などといふは、反閇(へんばい)とて足をもあだに踏まずとこそ承れ。その外不思議どものありけるを、その時は何とも覺えざりけれども、後には思ひ合する事どもは多かりけり。

《訳》
 七人の陰陽師が参って、千度の祓えを奉仕する。その中に、掃部頭時晴という年配の者がいた。供の者なども少なかったが、(邸内は)余りに大勢の人が集まっていて、筍のように密集し、稲麻竹葦が密生しているかのようだ。(時晴が)「役目の者ぞ、お通しなされ」と言って、人ごみを押し分け押し分け進むほどにどうしたはずみか、右の沓は踏まれて脱げ、その場にちょっと立ち止まっていたところ、冠さえ突き落とされてしまった。あれほど厳かな場所で、束帯で正装した年配者がまげをむき出しでしずしずと歩んできたので、若い公卿・殿上人は我慢できず、一斉に笑い合った。陰陽師という者は、反閇といって(作法に従って)歩く足をも無駄には踏まぬと聞いている。その他にも珍奇なことが起こった事をその時は何とも思わなかったけれど、後々思い当たることが多かったのである。

《解説》
 陰陽師の失態で座の失笑を買う些細な出来事であっても、こういう不祥事が重なって不安な未来の予兆となっていく。この段では、御産にまつわる異常事が次々を上げられている。これもそのうちの不吉なことの一つに過ぎない。
 千度の御祓は大祓(中臣(なかとみ)の祓)を千度繰り返すもの。勤める陰陽師は安倍時晴で、掃部頭ではなく正しくは主税助(ちからのすけ)。天文博士兼時の子である。冠・烏帽子を被らず、頭をむき出しにすることは無礼で醜態とされていた。
 反閇とは、陰陽道の足踏みによる作法で、邪気を踏み鎮める呪術。呪文を唱えたり手訣(しゆけつ)(印形)を結んだりしながら、千鳥足のように歩み、足を引き擦るような独特の足運びで北斗七星などを象ったりする。貴人の外出や神拝の時、陰陽師に行わせて邪気を祓わせる。反陪とも書く。陰陽師は足元には特に気を使わなければならないというのに、この体たらく。
 安倍晴明は彼の没年となった寛弘二年(一〇〇五)春三月に、一条天皇妃となった道長の娘・彰子(しょうし)の大原野社参詣に反閇を奉仕している。八十五歳という高齢にもかかわらず、反閇を実修しており、当時としては驚異的な体力・気力を持っていたといえる。

  • 陰陽師★瀬織津

    陰陽師★瀬織津

    2009/04/10 16:09:17

    斎様
    有り難くも読んで頂き、そのうえコメントまで頂いて、本当に有難うございます。
    マンガ『陰陽師』で晴明が冠を被らずに居たのを、博雅が大変な慌て様で、人目から隠すというのは、現代の人からは、ちょっとわからないことですよね。

  • 斎

    2009/04/08 20:09:32

    平安時代では冠を被らない事は無礼な事、冠(もしくは兜)を取られる事は首を取られる事に通じる恥辱、と言う事を前に何かで読んだ覚えがあります。
    それを踏まえて考えると、この些細な不祥事が不吉の予兆と言われると納得できますね。
    毎回、とても勉強になっています。ありがとうございます!