晴明伝説・民間信仰・音楽・漫画アニメ

陰陽師★瀬織津

自分の好きを表現し、具現化するところ

『平家物語』に見る陰陽道 7

日記

○泰親 (巻第三 十一 法印問答の事)p163
 同じき十一月七日の夜の戌(いぬ)の刻ばかり、大地おびただしう動いてやや久し。陰陽頭(おんやうのかみ)安倍泰親、急ぎ内裏(だいり)へ馳せ參り、「今度の地震、占文(せんもん)の指す所、その慎しみ輕(かろ)からず候。當道三經の中に、金櫃經(こんぎきやう)の説を見候ふに、年を得ては年を出でず、月を得ては月を出でず、日を得ては日を出でず。以ての外に火急に候」とて、涙をはらはらと流しければ、傅奏の人も色を失ひ、君も叡慮を驚かさせおはします。若き公卿殿上人は、「けしからぬ泰親が泣きやうかな。ただ今何事のあるべきか」とて、一度にどつとぞ笑ひ合はれける。されどもこの泰親は、晴明五代の苗裔(べうえい)を承けて、天文は淵源を窮め、推絛(すゐでう)掌(たなごころ)を指(さ)すが如し。一事も違(たが)はざりければ、指すの神子(みこ)とぞ申しける。雷(いかづち)の落ちかかりたりしかども、雷火の爲に狩衣の袖は燒けながら、その身はつつがもなかりけり。上代にも末代にも、ありがたかりし泰親なり。

《訳》
 同年(治承三年)十一月七日夜、八時頃、大地が激しく揺れて暫く続いた。陰陽頭安倍泰親が急いで内裏に駆けつけて「この度の地震、占文の示すところでは、重い謹慎とあります。陰陽道三経の内、金櫃経の説を見ますと、年でいえば今年中、月でいえば今月中、日でいえば今日中とあります。とりわけ緊急の事でございます。」と、はらはらと泣くので、取次の人も顔色を変え、天皇はお驚きあそばされる。若い公卿殿上人は「あきれた泰親の泣きようだ。今すぐ何事が起こるというのか」と笑いあった。といっても、この泰親は(安倍)晴明五代のちの子孫として、天文道は淵源を窮め、見通し占術は掌を指し示すように正確である。一つとして外れた事が無かったので、指すの神子と呼ばれていた。雷が落ちかかったことがあったが、雷火で狩衣の袖が焼けながらも、身体には何の異常も無かったという。上代にも末代にも泰親は類稀な人物であった。

《解説》
 この地震が予兆としたものは、清盛による政変で、太政大臣をはじめとする公卿・殿上人四十三人を罷免・追放、後白河法皇は幽閉の憂き目にあう。  安倍氏系図では、晴明・吉平・時親・有行・泰長・泰親。生没年未詳だが、文献上の最後の記録と陰陽頭交代の時期から寿永二年(一一八三)が没年と考えられている。康治二年(一一四三)頃、従五位上・土佐介・主計助、久安頃(一一四五~五〇)雅楽頭(うたのかみ)。『尊卑分脈』によると「密権天文博士・陰陽頭・大舎人頭・大膳権大夫・正四位上・七十四 ホ」とある。『続古事談』では、久安四年(一一四八)祇園社焼失の時、それに対し泰親が六月壬・癸の日に内裏焼亡と占い、それが的中して六月二十六日壬子の日に土御門の内裏が焼けたこと、これを鳥羽上皇が賞賛して「占いは十にして七当たるを神とす。泰親が占いは七当たる。上古に恥じず」と言ったことなどが載る。泰親の天文観測記録『安倍泰親朝臣記』には、地震の記録とその時刻における月の位置を並記しており、両者の因果関係を調べていたことは注目に値する。 「當道三經」は陰陽道で重要とされる『金櫃経』『枢機経』『神枢霊轄』の三書。

  • 斎

    2009/04/13 21:20:07

    7割当たる占い(先見なら予言に近いかも知れませんが)なら神と同じ…それ程に的中率が高いからこそ、正に「今日」何かがあるという事を知ってしまったら、常人より遥かに恐怖と混乱に見舞われるのかも知れませんね。
    先の事ならば予兆を見ながら対処できても、目の前の事であれば防ぐ事は難しい訳ですから…