TAKEのつぶやき

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☆北条政子

勉強

☆北条政子

北条政子は源頼朝と出会うころから歴史によく登場します。北条氏は現在の伊豆の韮山町あたりを本拠とする豪族でした。また、平治の乱で平家に敗れ、流罪になった源頼朝はその近所の蛭ヶ小島に流されてきます。ここで頼朝は約20年もの間、流人として生活をすることになるのですが、北条時政が平家から命じられ頼朝の監視役につくことになります。このことがきっかけとなり時政の子・政子は頼朝と出会うことになりました。

時政が京都大番役のために都にいた時に、政子と頼朝の間に女児(のちの大姫)が生まれます。そのことを平家に知れることを恐れた時政は、政子を伊豆国の代官である山木兼隆に嫁がせることにします。しかし、婚礼の日の夜に抜け出した政子は雨の中を夜通し走って頼朝のもとに行きついたという逸話があります。このため兼隆に攻められると考えた頼朝は先手を打ち、兼隆を夜襲します。そして、勢いに乗った頼朝は平家打倒の旗あげをするにいたります。

その後鎌倉幕府を開いた頼朝ですが急死した後に、政子は出家することになります。また、頼朝と政子には頼家と実朝の二人の男児がいましたが、二代将軍となった頼家は他の有力御家人と結びついたために、政子と時政によって幽閉され暗殺されてしまいます。その時政も同様に他の勢力と結びついたため、政子は弟の義時と協力して時政を追放します。このようにして政子は北条氏が実権を握る土台を築くのでした。

頼家の後をついで三代将軍となった実朝が頼家の子の公暁によって暗殺されると、事件が勃発します。すなわち、朝廷が幕府を倒し権力を奪還しようとしてさまざまな動きを見せ、義時を討伐するための承久の乱を起こします。多くの御家人たちは北条氏独裁に苦しめられていたため朝廷側に付こうとしましたが、政子の演説が突如流れを変えることになります(ここは有名な話しですよね)。頼朝の恩などを説いたその演説に涙する御家人もあったといいます。そして幕府の勝利となり、三人の上皇たちを流刑にしたり、六波羅探題を置いたりして幕府はその権力を確固たるものにします。

その後、政子は京都からむかえた幼い将軍の九条頼経を後見して実質的な政権を握るようになります。このため政子は「尼将軍」と呼ばれるようになり、わが子をも死に至らしめ、実の父を追放したため悪女として後世に語られるようになったといいます。

ここまで調べましたが、やはり政子も悪女というよりやり手のキャリアウーマンだったような気がします。また、政子に関する逸話に島津家に関する面白いものがありましたが、もう少し調べてカキコします。お楽しみに!!!

  • Mt.かめ

    Mt.かめ

    2011/06/16 08:07:15

    島津というと、鹿児島ですね。
    楽しみにしてます♪