TAKEのつぶやき

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☆「阿部正弘」祖父江一郎著

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幕末を一気に駆け抜けた人物ですが、結構悪く言われている人物でもあります。でもちょっと調べてみるだけで、なかなか面白いことをしていたことが分かります。

福山藩主・阿部伊勢守正弘は天保十四年(1843)、老中に任命されました。
水野忠邦が天保の改革で幕府の建て直しを実行しようとしましたが、ご存知の通りの結果で、その後始末をするために任命されたようなものだったとされていましたが、水野忠邦と鳥居耀蔵に数々の不正を突きつけ、要職の地位を追い落としたというのが本当のところだそうです。しかし、まさに幕末のとんでもない時代を駆け抜けることになっていきます。

老中就任翌年からさっそく開国に向けての動きが見られます。まず、オランダが動きを見せますが、まだまだ親切なものでした。これに対して、正弘は開国をほのめかすのですが、丁寧に断っています。
次に動きを見せたのが、アメリカでした。まず来日したのが東印度艦隊司令長官ジェームス・ビドルで、オランダ同様に親切なものでしたが、やはり丁寧に断っています。
当時のアメリカは捕鯨の補給基地として日本を利用したかったので、8年後に東印度艦隊司令長官マシュー・ペリーが来日しました。ここからは有名な話ですが、今度は断固たる態度で日本を開国させようとします。さらには、軍艦で脅かされとうとう国書を受け取ることになります。

ペリーは来年返事を取りに来るということでいったん艦隊を引き上げますが、正弘は前代未聞の行動に出ます。つまり、この国書に関する意見を外様や親藩を含めて諸国の大名に尋ねました。江戸時代に外様や親藩の大名は国政に参加することはなくまさに異例のことでした。しかし、これに対する大方の意見は、「現在の日本の軍備では外国との戦争は不可能である」「取り敢えず開国するのはやむを得ないのではないか」「緊急に軍備の増強を図るべきである」といったものでした。そして、正弘はこういった諸大名の意見を参考に次々と対策を打っていきます。このことに対して、「日和見で自分の意見がない」と批判されていますが、如何なものでしょうか?

正弘は、まず諸大名から幕府への上納金を軽減し、逆に資金を貸し付けて海防関係の工事を急がせます。さらに、大船建造禁止令を解除、鳳凰丸を建造するとともにオランダから蒸気船を2隻購入、ロシアに要請して西洋の造船技術を学ばせるなど大胆な行動を次々に起します。

再度ペリーが来航すると、厳しい交渉が行われ日本は函館と下田を開港することに同意し、アメリカ領事を駐在させることを認めた日米和親条約を締結するに至ります。しかし、正弘が一番苦労したのは水戸藩主・徳川斉昭などの攘夷強行論者たちの押さえ込みだったと言われていますが、阿部は水戸斉昭に養子問題で恩を売って抑えることに成功します。

その後、初代日本領事・ハリスが下田に来港し通商条約締結のための交渉が始まるのですが、大老井伊直弼との争いなどの過労が祟ったのでしょうか39歳の若さで急死しています。

今まで聞いていたこととちょっと違うことに驚きでした。埋もれている話は結構身近なところにあるものですね。