愛とは「心を並べて立つ」こと
俳聖芭蕉が、大家となる以前のことである。「古野の桜をぜひ見たい」といって、伊賀か
ら大和の国に旅立った。
途中、ある村にとても孝行な娘がいると聞いて、わざわざその家を訪ねてみた。家も身な
りもみすばらしく、その貧しさのぽどが容易に知れた。芭蕉は財布を逆さに振って一両を取
りだし、「どうぞこれで、ご両親の好きなものでも買ってあげてください」と、娘に押しつ
けるように渡した。吉野まで行く旅費は、もうない。
Uターンして帰ってきた芭蕉に、ある人が、「せっかく行かれたのに、情しかったですね」
といったのに笞えて、「私は桜の美しさを見たくて旅立ったのだが、桜よりももっと以上の、
人間の美しさを見ることができた。だから、思い残すことはありません」
いまとは交通事情がちがうから、もう一度行くというのは大変なことである。それでも、
惜しくなかった、という。いえる心があったからこそ、すぐれた句のかずかずは生まれでた
のであろう。芭蕉もまたしあわせな人であった。
愛とは、相手の眼を見つめることではありません。二人で並んで、同じ方向を向いて立
⊃て、一つのものをいっしょに見つめることです。
誰の言葉かを知らない。ある結婚式の披露宴で、こんなスピーチがあったと、出席者の一
人から聞いたのである。「いい言葉だなアー」と感心し、以来、忘れられないでいる。
相手と向きあって、たがいに眼を見つめあうことが愛であるならば、「愛は惜しみなく奪
う」にもなりかねないし、「自分だけがかわいい」になる危険性もある。客観的な精神が失
かねて、エゴの愛になる可能性が大きいのである。
並んで「一つのもの」を四つの限で見つめるとき、客観的な眼も、いのちの一体感も
したがって真正の愛が--はじめて生まれでるのであろう。「我執を超える」ことができる
のである。
この理は、男女の仲にかぎらず、ひろく人間愛の全般に通じるものだと思われる。
芭蕉と貧しい孝女とは、ゆきずりのァカの他人でしかなかった。けれど、ともに人間とし
て、「一つのもの」--善とか徳とか--を見つめる身であった。それゆえ二人の心は、す
ぐに「並んで立つ」ことができた。これができたとき、芭蕉の財布の一両が孝女の家に移る
ことに、いかなる不自然さもなかった。孝女の心とハーモニーを奏でたとき、芭蕉には一両
の金も、吉野の花を見ないことも、もはや惜しくはなかったのである。
みぃな
2011/10/22 09:24:36
これって奥深いことだね^^私にはちょっと難しいかなぁ~。
男女の愛というより、もっと広い意味での愛なんだろうね?
男女では、どうしても相手を見てしまうと思うし、それもひとつの愛のカタチかなって思う。
だけど、長く付き合って、一緒にいることが普通になった時(好きだの愛してるだの、いちいち言わなくなった時?)
二人が同じ方向を向いていたら、すごく素敵だなって思う^^
十河
2011/10/22 08:15:29
^^* ♪♬