自作小説倶楽部 3月自作/花 『春の記憶』
「あぁびっくりした」
薄桃色の花を一輪携え、縁側から戻ってきた香に
「何をびっくりしたの」
多恵子は布団の中から首だけ横に向けくすくすと笑いながら尋ねた。
「椿の花が咲き出したから飾ろうと思って摘んだら、蜜蜂が飛び出てきたのよ」
香は、和室の隅に置かれた仏壇のシキビの花瓶に、笑いながら椿を添えた。
「きれいねぇ」多恵子が溜息混じりに言えば「ほんとにきれいね」と香も答える。
やんわりとした陽射しの中で椿を楽しむ二人の間を縫うように、一匹の蜜蜂が迷いこんできた。小さな黄色と黒の縞々は、布団の上でちょこんと組まれた皺くちゃな手に静かに降り立ち、じじ……と羽をうならせた。
「あらいけない」
慌ててミツバチを追い払う仕草をする香とはうらはらに、多恵子はにっこりと笑い
「チエ子ちゃんがレンゲ畑で蜜蜂に追われて泣いとったんよ」
手の甲に蜜蜂を乗せたまま、ゆっくりと顔の傍まで近づけて見つめながら、蜜蜂に話しかけるように多恵子は続ける。
「走ったらよけい追われるんにねぇ。でもチエ子ちゃんはレンゲで飾り編むのが上手かったけん、蜂もレンゲ取られて仕返ししよるんかもしれんて言うたらチエ子ちゃん、そない悠長な事言っとらんで助けてやぁてベソかきよったわ」
初めて聞く話だわ……思いながら香は「うん、うん」と相槌を打つ。
静かな時間。
遠い過去の思い出話は、今の多恵子にとってつい昨日の出来事と何ら変わりない。
五年前に大腿骨を骨折して歩くのが困難になり、ひがな一日を布団で過ごすようになってから、多恵子の時間は少しずつ過去へと遡り始め、今ではすっかり結婚前の娘時代に戻っていた。
まだ二十歳である孫の香は、多恵子の母親に似ていたらしく、時折「お母さん」と呼ばれるのにもすっかり慣れた。
「チエ子ちゃんすっかりレンゲが嫌いになってねぇ、今年もじきレンゲの季節やけんど、もうあそこでは遊んでくれんかもしれん」
少し寂しそうに手を振って、縁側の開いた窓に向けて蜜蜂を飛ばした。
「そんなことないわ、今年も誘ったらきっと、レンゲの畑で遊んでくれるわ」
香は柔らかく笑いながら答え
「さぁ、まだ寒いけん窓閉めようかな」と多恵子に背を向け、縁側の窓に手をやった。その時だった。
「そういえばレンゲは利雄さんも好きな花やったなぁ」
ふと、随分昔に他界した祖父の名を聞かされ香は驚いた。
「おばあちゃん?」
記憶の混濁が進むにつれ、その名を聞く回数もめっきり減って、とうとう会話にも現れなくなった祖父。多恵子の口から「利雄」という名を最後に聞かされてから少なくとも二年は過ぎていた。
「おばあちゃん、おじいちゃんの事思い出したん?」
思わず声がうわずった。
「まぁそんな素っ頓狂な声だして。私は一時たりとも利雄さんを忘れた事なんてありませんよ」
布団の上で上半身を起こし、浴衣の前を直しながら多恵子が不思議そうな顔で香を見つめた。そして仏壇の奥に鎮座する位牌に顔を向け
「そうだわ、この時期はお花見よねぇ。利雄さんの好きな甘いお酒とユキノシタの天麩羅でも用意しましょうか」
香と香の母は急に忙しくなってしまった。
テンプラは裏庭に群生するユキノシタで間に合う。しかし祖父が甘い酒を嗜んでいたとは母もまるで知らないことだった。
子供が生まれるまでのわずかな新婚時代に夫婦でよく晩酌などしていたとは、祖父の葬式の時に親戚筋から聞いたことがある。多分その頃の事だろうが、どういう酒であったのかがまるで見当つかない。
「甘い酒っていえば……私この間こんなの買ったのよ」
香が台所の隅に隠していた桃色の瓶を取り出した。
「偶然だと思うけど、これレンゲのお酒なのよ」
キャップを捻り母親が香りを嗅ぐ。あぁ確かに甘そうね、兎に角今うちにある甘いお酒がこれしかないなら出してみましょう、と頷いた。
「このお酒じゃないわ」お猪口にちょっと告がれた一口に、最初は渋い顔をした多恵子だったが、クンと香りを嗅ぐと途端に表情が柔らかな灯のように明るくなった。
「あぁ懐かしいわぁ。嫁入りしたばかりの頃、利雄さんと歩いた畔のレンゲの匂いだわ」
その晩から、寝る前のレンゲの酒は多恵子の日課になった。
小さなお猪口に注がれたそれを大事そうにちょびっちょびっと口先で啜る。背中を丸めて、抱えるように、大事そうに。
「利雄さんも一緒に飲みましょうねぇ」
位牌に向かってにこやかに笑う姿は穏やかだった。
「おばあちゃん、レンゲが満開になったから見に行かんね」
うららかな昼下がりだった。
「車椅子で……あら、寝てるのね」
穏やかな祖母の寝顔に香は遠慮して、そのまま部屋を出ようとして、気がついた。
一匹の蜜蜂が運んだレンゲの記憶。
レンゲ色の酒が蘇らせた、穏やかな夫婦の晩酌の日々。
あなたと私の幸福。そして苦しみを緩和する、そんな意味を持つ言葉の花。
緩やかな永遠が天に昇る、春
~ 了 ~
ちょみ
2012/03/11 21:50:13
>百目木さん
今日は若干寒かったようですが、全国的に良いお天気だったようで、
穏やかに過ごすには良い一日で、良かったです。
百目木
2012/03/11 05:38:00
レンゲソウの畑の向こうに、蓮華やお浄土が見えますね♪
天に昇っっていく穏やかな永遠、今日は感じていたいです。
ちょみ
2012/03/09 23:15:40
>パールくん
読んでくださってありがとう(´▽`)
認知症に対する正しい知識と、相当の覚悟が必要ですが、上手く家庭で看取られる方は
この現代でも意外と多いようです~
と、辺境の医師が新聞に書いてるコラムで読みました^^;
どうもありがとう(´▽`)
パールくん
2012/03/09 22:53:05
認知症の老人を介護する家庭で、こんなふうに優しく愛情に満ちたお家はどれくらいなんだろう・・・
香と香のお母さん、素敵です!おばあさんの記憶に、すぐに対応しようとするって^^
多恵子さん、幸せな最期ですね^^
ちょみ
2012/03/09 21:48:55
>湘南エイトさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
やっと春めいてきましたね~
そして私は夏が嫌いなので…このまま秋に突入してくれないかなぁ…
などと思ってます^^;
湘南エイト
2012/03/09 19:41:08
春の感じがよくでていると思いました。
春が待ち遠しくなりました。ありがとう。
ちょみ
2012/03/08 23:38:20
>紫草さん
読んでくださってありがとう(´▽`)
花や自然にいっぱい囲まれた子供時代って、どんなやんちゃしてても不思議と、
穏やかな思い出になるのかもしれませんね。
ありがとう^^
ちょみ
2012/03/08 23:35:44
>そよそよさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
私の親もそろそろ…な年頃なので、毎日ハラハラです^^;
お酒のシーン書くのが好きなので、「飲みたい」て思ってもらえて光栄vv
ちょみ
2012/03/08 23:33:54
>クマゴウさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
戦前・戦中育ちの人は辛いことの方が多かっただろうに、
幸せな思い出をきちんと抱えておられる方が多くていつもびっくりさせられます。
おばあちゃんは大往生で召されました。
死ぬっていう表現を、いつも直接的な言葉を使わないで仄めかす程度で使うので、
いつもはっきりしない最後になってしまいます~
ちょみ
2012/03/08 23:30:16
>スイーツマンさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
穏やかさを感じ取ってもらえたら嬉しいです^^
ちょみ
2012/03/08 23:29:39
>七川冷さま
読んでくださってありがとう(´▽`)
ほんわかと眠るように大往生…理想です^^
ちょみ
2012/03/08 23:28:09
>あやさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
そっか、沖縄はちょうどこんな感じの時期なんですね^^
ありがとう^^
紫草
2012/03/08 23:11:16
私は愛知でも、少し岐阜寄りの郊外に住んで育ったんです。
どういうわけか、桜とレンゲと藤がいっぱいあるところでした。
今も、花の記憶で思い出すことは多いですが、穏やかな記憶になったらいいなと思います。
しっとりとした春のお話でした^^
そよそよ
2012/03/08 13:12:58
お久しぶりです
うちは祖父母は全員亡くなったので、懐かしく読ませていただきました。
とか思ってたら、親も年とってきてんですよね。。。
いい話なのに、最後にはお酒が飲みたくなってくる・・・。まだ昼だから、耐えよう!
クマゴウ
2012/03/07 23:55:36
記憶ですか・・・
年を取るほど過去の(楽しかった)思い出が鮮明に蘇る・・・
何処かでそう聞いたことがあります。
これから春に向かっていくこの時期に、文章から春を感じました。
緩やかな永遠が天に昇る、春
(ぼくだけかもしれませんが)おばあちゃんは天に召されたのでしょうか?
スイーツマン
2012/03/07 19:00:26
穏やかな終焉
これもまた幸福
うまいですねえ
七川冷
2012/03/07 18:46:30
微笑ましい話しですね。
あびにゃんこ
2012/03/07 15:02:38
やさしいお話ですね^^
私の友人で、家に認知症の家族をかかえている人がいるんですが、
「年とったら記憶だけでなくて見た目も子どもになればいいのに。
そしたら皆からもっと可愛がってもらえるのに」
って言っていたのを思い出しました。
彼女の目にも、このお話の主人公のように可愛いおばあちゃまが見えているんでしょうね。
なんだか友人の顔を思い出してしまいました^^
あや
2012/03/07 13:53:04
あいや〜
ステキ・・・・♡ それ以外に言葉はいらないよね。
春の淡い空気感と、生暖かさ(沖縄は熱帯低気圧なもんで^^;)がよく伝わってきました。
しあわせな記憶だよね。
ちょみさん、ナイス!!
ちょみ
2012/03/06 21:59:35
>かいじんさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
痴呆とか脳の病気って、難しくてホントはちゃんと書ききれてないような気がするんです…^^;
何ていうか、本当に不思議な病気です~
どぶろく、そうそう、税金の関係でダメなんですよねー
最近、流行ってるようですが…^^;
ちょみ
2012/03/06 21:56:54
>まゆさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
レンゲのお酒は、本当にありまして、ピンクの甘いきれいなリキュールです~
お年寄りの痴呆の進行には色々ありますね…
今回のように結婚前に戻って、一時であれ旦那さんの事も子供の事も忘れちゃう人も居ます
でもきっと当人は幸せな時代に戻っているのだろうから、まぁ、悪くはないのかな…^^;
お褒めの言葉ありがとうございましたー
かいじん
2012/03/06 21:56:29
記憶は本人から失われている訳では無いんですね。
何かのきっかけで思い出す事が出来る。
どぶろくが駄目なのは
「製造理由の如何を問わず、自家生産の禁止は、税収確保の見地より行政の裁量内にある」
だからだそうです><
ちょみ
2012/03/06 21:52:57
>百目木さん
読んでくださってありがとう(´▽`)
褒めていただいて恥ずかしいやら^^; ありがとうございました~
ちょみ
2012/03/06 21:51:52
>BENクーさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
幸せを感じていただいて嬉しいです。
お褒めいただき、ありがとうございました>▽<
まゆ
2012/03/06 18:14:29
うわーっ、すごい作品を書きましたね。
教科書に載っていてもいいような。(晩酌以外)
お年寄りって、新しい記憶から無くなっていくと、最後には子供のころの記憶がよみがえるのかな。
そして、記憶を呼び起こすのが臭いというとことがリアルで説得力があります。
レンゲの香りが伝染させる幸福の記憶ってステキですね。
百目木
2012/03/06 07:19:59
楽しかった記憶を蘇らせてくれる甘いお酒のお話、、
さいごの4行に釘付けになりました。いいですね〜。
BENクー
2012/03/06 03:04:56
穏やかに過去の思い出に浸っている姿がとても優しそうで、読んでいてとても心癒される思いになりました。
暖かさの溢れ出るような作品で、私も幸せを感じさせてもらっている気分がして、とても気持ち良くなりました!
丁寧な文章で、一文一文の雰囲気が頭に刻み込まれていくようでとても感心しました!(^0^)
ちょみ
2012/03/05 22:55:36
>やあさん
読んでくださってありがとう(´▽`)
ネタをばらせば、半分くらい実話です~
モデルはうちのばーさまとそのお姉さんご両人の、看取られるまでの話をまぜこぜ^^;
うちのばーさまなどは、毎晩お猪口一杯晩酌していたそうですvv
どぶろくは甘くてミネラルもビタミンも豊富で健康に良い、嬉しいお酒です~
甘酒も食欲増加や、ガン予防だとか色々あるそうです(´▽`)
.やあ
2012/03/05 22:35:13
↓ おお^^ 甘酒かと思いましたです^^
大腿骨骨折後の寝たきり、そして認知症。
とてもとても大変な日常の筈なのにほのぼーの。
全体があたたかい空気に満たされている、やさしい情景ですね^^
細やかな愛情を感じさせるお話。
とっても好感を持ちました^^
ちょみ
2012/03/05 21:54:15
甘いお酒は、どぶろくでありんす(´▽`)