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陰陽師★瀬織津

自分の好きを表現し、具現化するところ

一 平家、急潮に滅ぶ (その一)

その他

 平安時代後期、都に端を発した平家と源氏の戦いは西へ西へと伸び、寿永三年(一一八四)秋には平知盛が長門国引島(下関市彦島)に城を築き、源氏を迎え撃つことになった。翌寿永四年(文治元年)三月二十四日、平宗盛率いる平家軍船団は彦島から早鞆の瀬戸を上がり、源義経の水軍は下関市長府の豊浦(とよら)から船出、壇之浦を目指した。史上初の海上戦だった壇之浦の合戦は、当初平家側の優勢であったが、水夫を攻撃するという非情の戦法で源氏が形勢逆転。船の動力を奪われた平家の軍勢はことごとく滅び去り、御齢数え八歳の安徳天皇が関門海峡の壇之浦に入水され、崩御された。
 源平の合戦にまつわる平家の哀話は下関の各地に残されている。


赤間ケ関
 下関は本州の西端に位置し、瀬戸内海と日本海とを繋ぐ関門海峡をはさんで九州と相対し、大陸にも近いという地理条件で古くから栄えて来た。下関は古くは赤間ケ関(あかまがせき)ともよばれていた。そして関門海峡は明治になってからよばれるようになったもので、壇之浦と九州門司の間の流れは早鞆(はやとも)の瀬戸と称していた。


○彦島
 下関の南西部に位置し、面積九・八二平方粁の島である。大瀬戸・小瀬戸および外海に囲まれているが、下関側大和町の埋立てと関彦橋(かんげんきょう)が出来た今日では、下関市街と陸続きも同然となっている。さらに彦島大橋が架設され、下関の金比羅町と彦島迫町を結ぶ彦島有料道路(現在は無料化)が開通した。二車線の橋が小瀬戸海峡を跨ぐ。
 彦島は古くは引島とよばれ、『吾妻鑑』元暦二年(一一八五)二月十六日条に「新中納言平知盛相具九国官兵固門司関、以彦島定営(九国官兵を相具(あいぐ)し、門司関を固める。彦島を以って営を定める)」と見える。知盛は初め、山口県の東端にある周防大島に約一ヶ月間拠点を置いていたが、寿永三年十月、源範頼(のりより)が西下して周防から長門に迫ったと聞くと、知盛は海路をいち早く長門に至り、知行地であった彦島に城を構え(彼は寿永元年に長門国司に任じられている)、源氏軍を迎撃しようとした。源氏の九州渡海を阻むために布陣して、西国の勢力結集をはかったのである。範頼は知盛の阻止にあって長門目代達の協力を得られず、翌年になってようやく九州豊後に渡る事が出来た。
誰も知らない平家最期の砦
 知盛が築いた城は彦島城・引島城・根緒城などとよばれたが、その本営が島のどこにあったのか、どれくらいの規模であったのかは明らかになっていない。一般的には江ノ浦の丘陵地帯にあり、規模も竹矢来を巡らした程度の砦ではないか、と推測されている。しかし、範頼が彦島を攻め落とせなかった事を考えると、最後の拠点として、また長門守を勤めた知盛に相応しい城の構えを急造していたとみるべきで、規模も江ノ浦のみに留まらず、下関側の対岸となる彦島東部丘陵全てに築かれていたように思える。寿永三年、源氏の土肥実平が義経に宛てた書状に、知盛卿、彦島に堅固の城を構えらる、参河どの(範頼)もぜひなく、豊後の地へ渡られ、しばし態(てい)を御覧ぜらるるやの由にて候、と書かれていた。範頼は長門の厚東氏を味方に彦島を攻めようとしたが果たせず、九州の豊前、筑前などを平定して、九州側から彦島を攻め立て、平家を孤立状態にしようとしたが、これも思うにまかせなかったという。これでは難攻不落の要塞といったところか。
 ところで彦島は知盛が布陣する以前から、平家との関わりが有った。それは平家全盛であった頃の話で、平清盛は平家の祈願所を設けるために、全国に七里七浦の地を探させた。候補に残ったのが安芸国の宮島とこの長門国の彦島であった。宮島とほぼ同じ大きさというが、彦島は七里に少し足りなかったので、結局平家の祈願所は宮島に決まり、彦島の人々は悔しがったという。
 その彦島が平家最後の砦になったとは、何か皮肉めいた因縁を感じさせる。
 ともあれ、寿永四年三月二十四日、平家は彦島の根緒城を出て、その軍船は福良(ふくら)又は海士郷(あまのごう)から出航したとされる。そして壇之浦に散り、二度と彦島に戻ることはなかった。