書けた……言葉にできた……!
雪がしんしんと降ってゐる。道の両側に雪の壁が1m。
もっとひどい地域はあるんだろうけど、このへんではすごく大雪。
バイト先でも休日とは思えないほど空いていた。
でも店長が「今日は混まないだろうから」とか言って
次々とスタッフを帰しちゃうもんだから、
結局いつもの平日程度には忙しく感じたよ……。
お人形のいのち・その2。
……どこまで書いたんだっけ……てか昨日ちゃんと保存したっけ。
……ああ読み返した。なんか週刊漫画のヒキみたくなっとる。
ええと、私が見出したこと。それは、人形は「抜け殻」であるということ。
んー……よく言う、「人の形をしていながら、在るべき魂が入っていないから」
とか言うのとはちょっと違う感じなんだけど。
(人形が人間の似姿なのは、本質的に身代わりにされるためであって、
むしろ魂は入っていない方が好きに同一化できていい感じなんじゃね、という結論)
そういうのと違って、例えば人形作家が精魂込めて作る創作人形なんかで、
人形に魂が入るのは、作家が魂を賭けて人形と向き合っているその瞬間だよね。
でも、完成した人形を後から見る観客たちには、その火花散るような美しい葛藤を
直に見ることはできず、自身の感受性に頼って推測するしかないわけで。
「かつてそこに人形の魂があった。今はもう無い。すべては過ぎ去った」
なんか逆説的だけど、要するに「人形の魂」ってそういうことじゃないのかな。
過去に弾けた、今は亡き魂の軌跡をまざまざと指し示すという機能。
でだ。それってあらゆる創作物について言えるんじゃね? てのが
私の最大の発見な訳で。そこで初めて挙動不審なほど感動してしまった訳で。
作者が魂を絞り出すようにして生み出す創造物たち。
それらは全て、「過去形」である。と。
かつてそこで魂の火花が美しく散っていた。今はもう無い。既にすべては終わっている。
その火花を「見る」ことができるかどうかは、見る者の感受性次第。
見る者によっては、その心のうちに再び火花を蘇らせることができるのだろう。
(……私たちは創造物たちがまさに生きている瞬間に立ち会うことはできない。
私たちが見るのは、「かつてそこに何かが生きていた」と示すシカバネでしかない。
図らずも、人形愛とネクロフィリアの共通点のようなものが見えたわね……)
そう思ったら、ね。気が少し楽になったというか。
命あるものを無理にひねり出そうとしなくていい。
私が魂を込めて物語を作ったら、その物語の「抜け殻」が、
いつかそれを見る力のある人に出会って、過ぎ去った私の魂、
物語の魂、を感じてくれるのかもしれないな、って。
人間だけじゃなく、全ての「もの」に魂があるって話を、
素直に信じられる気がしたんだよね。