☆蘇我倉山田石川麻呂
大化の改新(乙巳の変)は小学校の歴史の時間でも習うくらい有名な事件ですが、ちょっと調べてみると、不思議なことが多く出てきます。
その中で蘇我倉山田石川麻呂という人物がなんともよく分かりません。資料によると大化の改新の計画がなされる際に突如現れるのですが、それまでの資料が全くないそうです。
また、蘇我入鹿とは従兄弟ということになっていますが、乱世の常識で同族争いから敵方に付いたものと思われます。
その後、石川麻呂は右大臣になるのですが、その4年後に謀反の疑いで追い詰められ、山田寺で自殺しています。
また、山田寺で石川麻呂は家族や共の者数十人を次のように述べたそうです。
「人臣たる者は主君に逆らってはならず、また父親に不孝を成すべきではない。この寺は自らのために造立したものではなく、天皇のために構作したのである。私は日向の讒言で誅罰を受ける事は恐ろしくないが、黄泉には忠を懐きながら退りいきたく思う。寺にやってきたのは最後を心安く迎えるためである。」
このことに関しては、書紀の編纂に石川麻呂の孫の持統天皇や元明天皇が携わっていたために美化されたとする説もあるそうです。