きいてニコタリーナ

きよ

ちょっと整理したいんだけど

タイムアップ

日記

ちょっと考えをまとめたいのでメモに使う。

ついったでやろうかとも思ったんだけど、まあ、長くなりそうなので。

最近つらつら考えてる例のアレの続きみたいなものです。



物語の登場人物やお人形にリアリティ、魂、一個の人格?を

感じてしまうのは、「共感」のはたらきによるものだろう。

(のみならず、幼い頃のことを思い出してみれば

私は平仮名ブロックを十字に組んだものから毛バタキまで

あらゆるものに「お人形」として人格を付与していたように思う。

今も、バットに並んだハンバーグを「隣のバーグと引き離されて可哀想」

とか、床に落ちたホタテの小柱に「捨てることになってごめんね」と思うとか、

たぶん他人にはよく分からないルールにのっとって仕事をしたりする)

相手を理解しようとする時、私たちは相手に仮の人格を設定し

それを想像し共感することで理解する。した気になる。

生きた人間関係についてそれが大切なのは言わずもがな。

人間が死者とさえ共感できることは知られている。

動物は人間とは違う思考回路、違う原則にのっとって生きているが、

そこに人間のような魂を仮定することで、共感と同情が生まれる。

擬人化だって、要はそういう共感のための回路だろう。

共感という感性が鋭いほど、私たちは多くの相手に心を開ける。

……しかし。そう安易に共感すべきでないこともあるのではないか。

「己の理念とは全く別の理路に依って行動する、理解も共感も絶した他者」を

己の理路のうちに取りこんでしまうことによる、無意識の冒涜。

理解できないものを「理解できないもの」として理解することの、昨今の軽視?

例えば小説を読むとき、私たちはたぶん、主人公と自分を同一視する。

仮想の主人公の体に自分の魂を滑り込ませて、行動と思考を共にする。

でもそのとき、主人公と「私」は完璧に同調できるわけじゃないよね。

微妙にサイズの合わない着ぐるみでも着たときのように。

(「完全に主人公に同調できる」っていうのも能力の一つではあるんだろうけど)

腕の長さが違う。歩幅が違う。鼓動と呼吸のリズムが、皮膚の感覚が、

視線の惹かれるものが、選ぶ言葉が、喜びを感じる事柄が、思考回路が、行動が。

その薄膜いちまい分くらいの、わずかな、でも確かな違和感を、

違和感として持ち続けながら、わたしとあなたは同じ存在ではないと認めながら、

それでも心を寄せようとする。それが本当の「共感」ではないのか。

絶対的な差異を、決して完全には理解し合うことができない隔絶を、

嫌というほど思い知りながら、それでも隣に存在するのを許し合うことが。

他者を、軽々に自分の理路で理解しない。それがつまり、相手を敬するという。

……あれ、私こんな話がしたいんだったかな。えーと。

私は最初、擬似魂の魅力を「人が心を寄せる(共感する)ことによって魂を得る」

ことだと思っていたんだけど、こうしてつらつらと考えてみるに、

(昔私が「雰囲気」と呼んだような)「敬意を払うに値すると認められる」

ということも大切なのかもしれないなあと思いました(小並感)。

心を寄せられることによって魂を得、敬意を払われることで尊厳を得る。

だから、えーと。どんな擬似魂でも、どこかの誰かと波長が合っちゃって

共感されるのは簡単だろうけど、ヒトガタとして生まれたからには

敬意を以て遇されるっていうのは目指すべきことじゃないかと。

ヒトガタへの敬意。これか。これが(暫定的に)私の目指すべきものか。

共感と敬意。やっぱり哲学の領域なのかな。

技術論で行くなら、文芸の分野かもしれない。

学びたい。学びたい! 知りたい!



ああこれ。昔々、焼けつくようにいつも抱いていた。

なんか今は俗にイタイ病気とも言われる年代の頃に抱いていた。

もう10年以上前なのか。10年越しに思い出したのか。

そう、あの頃の私はイタかった。今だってイタイのかもしれない。

10年経って、ちょっとはこなれただろうか?

全てを手にするには時間がなさすぎて、自分が小さすぎると知ったあとで、

それでも、だから、手を伸ばせるのか、伸ばせるなら、踏み出せるだろうか?

私は無知です。私には知りたいことがあります。たくさんあります。

お願いします。教えてください。この飢えを満たしてください。