まとまったようでまとまってない
うーん。
今日もちょっと、考えをまとめておいた方がよさそう、かな。
そんな訳でぐだぐだといっくよー。
まずは前ので書いてた眠り目と窓付きの話な。
まあこれは、最近の私の思考がだいたいそうであるように
ほぼ内田先生のご著書で書かれてることの受け売りなんだけど、
(さらに遡ればレヴィナスの思想らしいよ! 頭よさそうに見えるね!)
安易な共感≒所有を拒む尊厳があるとしたら、それは顔、
もっと言うと目である、と。所有と支配に抵抗するもの。
「殺そうとしている相手の目を見てはいけない」。
で、よく人形作家さんはお人形の目に拘るじゃないですか。
それつまり、安易な共感に抵抗する意志であり、
逆に言うと顔の無い人形、目を閉じた人形は
所有の欲求を緩やかに受け入れているのではないか、と。
まあこれ、雨沢聖さんとかの考えと180°異なっちゃうんだけどさー。
「受け身的存在である人形は、目を閉じた瞬間
果てしなく孤高の人になる。」(雨沢聖)
たぶん私が男性脳寄りで、お人形を共感の依り代ではなく
所有の対象として見てしまうっていうのと関係あるんじゃないかと。
共感の依り代としてお人形を見るなら、それと目を合わせることは
立派にお人形と、ないしその人の内面との意思疎通だ。
そういう人は、眠り目にやんわりとした拒絶の意思を見るのかもしれない。
でも私はたぶん、違う。お人形の目を見る時、
私はそこに侵しがたい尊厳を見る。所有への抵抗を見る。
だからきっと、幼い頃の私は部屋に「顔のあるもの」を
置いておくのが嫌いだったんだろうし、
裏返せば私が窓付きに対して安易な共感と同一化をしてしまうのは
彼女が目を閉じている(ように見える)からじゃないかと。
眠り目は受容の証。それが私の結論。
それと関係あるかもしれないしないかもしれない次の案件。
物語の登場人物、人形、電脳歌手。擬似魂。
要は人に似せ、人を模ったモノ。
ほぼどこの文化にも存在するというそれらは、
そも何のために生まれたのか。
「人間の身代わり、依り代として」。うむ。
えーと、何が言いたいのかっていうと。ちょっと待って。
ああそう、ヒトガタを芸術としてとか見る向きもあるけど、
私は完全に、ヒトガタのそもそもの誕生理由である
「人間の欲望を注ぎ込む道具」として見てるんだろうなあ、と。
「人間に都合のいい道具」としてしか見られないんだろうなあ、と。
……と、は思うんだ。うん。でも。
人間に似せた形に作ってしまったがゆえに、ヒトガタには
元々の意図とは違う存在理由ができてしまった。
人間はそこに、一種の尊厳を見てしまった。
魂を見てしまった。どうしようもない共感の本能によって。
それが、人間の出来損ないのコピーとしてでなく、
ヒトガタのヒトガタとしてのヒトガタらしさのリアリティ。
……うむ。もうちょっと待って。夕飯作る時間までに
ちゃんとまとめられるかな……。
えーとえーと。誰の心にもアニマやアニムスとか
ペルソナやシャドウとか、いるじゃないですか。未分化ながらも。
でもそれって、結局自分の一部として統合すべきものじゃないですか。
それが、本来のヒトガタの立ち位置。だと思うの。
結局は自分の一部。最後には自分自身へ還るもの。
でも、人間はヒトガタに、魂という尊厳を見てしまいました。
そこで、ヒトガタは他者になってしまったの。
完全な理解と共感は及ばない「相手」になってしまったの。
世の中に、人間が魂を込めて作ったものは多々あれど、
ヒトガタは、人に似せた形をしていたがゆえに、
他者になることができてしまったの。
それが、私が思う、ヒトガタの特別性。です。
ただの道具として看過しておけない理由、です。たぶん。
こういうこと、考えるのは本っ当に楽しくて、
脳がこねこねされてる感覚ってもうすさまじい快感で、
ずっと考えてられたらいいなあ、なんて思うんだけど、
こういうことを系統立てて学べる場所ってどこなんでしょうね。
心理学かなあ。哲学かなあ。文学かなあ。
人間がヒトガタに尊厳を見てしまう現象、に重きを置くなら心理学、
共感と他者の問題を突き詰めたいなら哲学、
ヒトガタの特別性が生むドラマを夢見たいなら文学、
っていうくくりで合ってるかな?
合ってるとして、私どれが本当にやりたいのかな?