☆前田慶次郎
戦国時代には個性的な人物が多かったような気がします。織田信長や前田利家などは若い頃は「傾奇者」と呼ばれたのは有名です。ところで、知名度は少々劣ると思いますが最も際立った傾奇者と言われるのが、前田慶次郎です。武勇に優れたほかにも数々の学問にも通じていたのですが、その才能とはうらはらに自由奔放で壮絶な一生を送っています。
まずは出自ですが、はっきりしません。いくつかの説はあるみたいですが、どうもつじつまが合わないみたいです。しかし、利家の実兄であり、尾張荒子城主である利久の養子となりましたが、ご存知のように信長の命により利家が家督を継ぐことになり、利久とともに城を追われてしまいます。
そして、信長の死後、大大名となった利家を頼って金沢に戻った二人を利家は厚遇し、慶次郎は越中阿尾城の城主になり五千石を領しています。ここで、面白い逸話があり、利家の影武者として出陣したにもかかわらず、戦場で「我こそは利家の影武者なり」と宣言して大ひんしゅくをかったそうです。
しかし、養父利久が病没してからは利家とは反りが合わなくなったそうです。もともと自由奔放な性格の慶次郎は律儀な利家に不満を感じるのは容易に想像がつきますし、さらに利久の死によって押さえが利かなくなったと思われます。
そして、慶次郎はついに前田家を出ることを決意しますが、ただでは済むはずもなく、面白い逸話が残っています。慶次郎は茶会と称して利家を自邸に招待しました。利家は慶次郎が心を入れ換えたものと思っていたそうで、慶次郎に勧められるままに風呂に入ると、何と水風呂だったそうです。利家が驚いている間に、慶次郎は馬に乗って飛び出していったと言います。
その後、上杉景勝に仕える事になりますが、ここでもただでは済みません。景勝に謁見した時も奇抜な格好だったそうで、穀蔵院惣之斎(こくぞういんひょっとさい)と名乗り、さらには景勝に持参した土産物は大根三本だったそうです。しかし、景勝もなかなかのもので、なんと慶次郎を五千石で召し抱えています。
その後、出陣した時にも面白い逸話があります。慶次郎は自分の旗指物に「大ふへん者」と大書して出陣したといいます。これを見た上杉家古参の武士に「新参者のくせに大武辺者とはおこがましい」と厳しく非難されますが、「拙者永の浪人暮らしゆえ、大不便者と書いただけだ」と大笑いして相手にしなかったそうです。
ただ、その後家康によって景勝が倒されてからは、慶次郎は誰にも仕えることはなかったそうです。
「そもそもこの無苦庵は、孝を勤むべき親もなければ、憐むべき子もなし、心は墨に染まねども、髪結ぶが難しさに頭を剃り、手を使う奉公もせず。足の駕籠かきの子揚を雇わず。七年の病なければ、三年の艾を用いず。雲無心にして、岫を出ずるも亦おかし。詩歌に心かけねば、月下も苦にならず。寝たければ、昼も寝ね、起きたければ夜も起きる。九品蓮台に至らんと思う欲心もなければ、八万地獄に落つる罪もなし。生きるまで生きたら、死ぬで有ろうと思う」
なんとも豪快ですね。
りょう。
2013/10/24 16:27:50
こんにちわ!「花の慶次」を読んですっかりファンです^^かっこいいです^^
こんな生き方ってある意味幸せかな^^(なかなか真似できませんが)