だいしょうじ

友だち探し

日記

今日は友達を探して、友申請をしてみるのだ。
友人がいっぱいプレゼントを贈ってくれてありがたいが・・・その美的感覚についていけないものもあるのだ。
「蚊取り豚」が出てこないことを祈るのだ。

  • だいしょうじ

    だいしょうじ

    2018/06/04 16:38:57

    ブログ拝見しました。
    私はMIXIに時々書いていますが、そちらのHNは夢まぼろしといいます。

    楽団、なんだか聞いててとても楽しいですね♪私にはちょっと古い歌も多いけれど、でも聞き覚えがあるので懐かしい感じがします。東海林太郎さんの雰囲気に似てるのかな。
    まじめに歌っていらっしゃるのが、好感がもてて、聞いていて楽しいです。
    楽しいみっけもの、ありがとうございました♪

    区の援助がある、ご近所の方たちとつどってのシルバーカラオケに、これで歌われている歌をうたってみようかしら?軍歌ばかりだと・・・どうもねぇ~ですもの。

    今日は10年ぶりくらいに銀座まで行ってきました。
    足がくたくた、身体もくたくた。
    早寝しそうです。
    歩く速度や階段などは、足弱の私がかなりスピードをセーブして合わせるので、疲れます。
    たまに妹と一緒に歩くことがあると、ノーマルな人の速度ですので、私が振り返って待つことも必要なく、信号も普通にわたれるしぎりぎりだと走って追いつくし、
    あぁ、普通の人の暮らしはこういうものなのだなと、しみじみ思います。

    ではまたユーチューブにいきますので、ここまでに。

  • yutaka

    yutaka

    2018/06/04 13:06:16

    追伸です

    まあ一度聞いて下されば説明しても理解出来ないと思いますわ。
    ユーチューブで毎日暇があれば見て聞いてます。

    この頃は相当有名になって北海道へも行くらしいです。
    関東が主な地盤ですから浅草神社の境内でのライブが多いですが
    富山出身の兄弟ですが今は東京で暮らしてるそうです。

    大阪に来た今年の一月にはお初天神のライブ、や天神橋筋のビルのホールへ2日続けて
    行って来ました。
    12月の暮は丁度クリスマスのイブでして娘夫婦と私ら4人で一泊して広島公演に行きました

    その話を08~0さんにしたら、当日あの方も行かれたそうで感想などお聞き出来ました。

    外でのライブは投げ銭で帽子が置いてあるので千円札一枚入れるんですが丁寧にお辞儀され
    ホールでは3000~4000までで普通のコンサートよりお安いです。

    東京の小さいホール等では2000円などもあります。
    場所代で変わるんでしょうね。

    彼等をテレビで知ってからすぐユーチューブで見てますが10年前に始めたので最初の頃のは
    可愛そうな程必死に唄っても人が聞いて呉れなかったりでした。
    今2018年度の浅草境内など出してごらんになって下さい、次男がイケメンで長男は華奢で
    中々いいですよ、

    大阪の仕切ってくれる人が居て仲間に入るとラインで知らせてくれます。
    初め知らずに、一々有難うございますとか返事してたら、これはみんなの回覧板ですから
    返事は要らない、見てくれるだけでいいとか言われました。

    あ、それからこの前仰ってた最高齢の人が居ると、久遠の恵さんでしょう、あの方と数年前
    やり取りしてたのですよ、ブログも見てね、でも3才も上の人が居るといつも言われるので
    年が皆にばれるのが嫌で、遠のいたんです。私もブログしてましたので見て下さいませ。

    「知らしめ日記」といいます。http://26-30-45.at.webry.info/

  • だいしょうじ

    だいしょうじ

    2018/06/04 12:28:45

    yutakaさま、
    大変な生活なのだろうと思います。
    うちも、聞き取りが難しいので、数回同じことを繰り返しています。
    理解力も落ちていますので、しつこくしつこく説明します。
    これは失語症の後遺症ですから、最初からそんな状態でして、発病したころは泣きたくなりました。
    その反面しっかりしたところもあり、自分の状態を理解していますから、
    プライドを傷つけないように対応しなくちゃいけません。

    私のことをすごく心配してくれるので、ありがたいですが、
    家事についても、着替えについても、頼めるわけもなくて、背が低い私が必死で踏み台を使って手を伸ばしていました。
    それが椅子に上って高いところのものをとっていた時にバランスを崩して落ちて以来、ヘルパーさんに頼むようにしています。

    46歳で昇給もなくなり、
    会社の退職者グループでは、ブルーカラーの方たちと同じグループに入れられて、
    高学歴の意味もなくなりました。
    出世のためにと群がっていた方たちは、あっという間に消えました。
    それでも夫のそばに残っている方たちは、ほんとうに夫のことを理解して友人と思ってくださっているのだと、大事にしています。

    体が不自由ということは、始終気を張り詰めて夫を見ている必要があるので、やはり私も気が抜けません。
    そして私が病気の後遺症で記憶力と判断力が落ちたために、ものすごく疲れるようになりました~笑。

    ひさしぶりに夫の帽子を買いに出かけますので、今日はここまでで。

    私が先に死んだら、夫のことはどうなるのか、とても心配です。
    夫のきょうだいとは疎遠ですので、まったくあてになりません。年賀状一つやりとりしていませんから。

  • yutaka

    yutaka

    2018/06/04 12:12:13

    だいしょうじさん こんにちは_φ(・ω・`)

    貴女も介護生活しながらお体も悪くなってご苦労されてますね。
    でもお子様がいらっしゃらないので愛情をご主人一筋に向けて介護も
    お出来になれるのだと思いますよ、

    子供いると成人した子供でも親となれば自分の死んだあとの事まで
    気になって又孫が出来れば、孫への愛情はそれ程ないのに、子供の為を思い
    又孫の行く末まで気にしなくてはならず、連れ合いの事は二の次になるんです。

    今の主人には冷たい様ですがいつも腹を立てています、寸前の事を忘れるという病気は
    自分の言った言葉も忘れる、食べる?と聞いても要らないと言って、私が食べると
    それ俺には?といった状態で、何時もイライラします。

    何にも相談しても脳が解らなくてぼんやりしてるので、すべて私が取り仕切り赤ん坊の様な
    ものです、 それで酒,煙草は好きなので私が管理しないと危ないし、電球一つ付け替えも
    して貰えず、高い所に手を伸ばすことも私も無理になって、娘婿が優しいので助かってます。

    でも68迄現役で企業をしてましたので(私の実父の会社の後を継いだので)よく頑張って
    くれた事は感謝してるし、4,5年前までは庭の手入れは彼の仕事で、草一本生えてないなあと
    云われたほどで花作りや家庭菜園などやってくれてたことは忘れてはいないんですけどね。

    体が不自由で頭がしっかりなさってるのと、体は91才ですが丈夫で悪い所はなくでも脳が
    おかしくて、何処でも立小便しようとするのでヒヤヒヤするし、何処へ行っても禁煙が多くて
    喫煙場所を探さねばならない会話が常に成り立たないのとどちらがいいか比べようもないですね。

    私が少し嵌ってるのは「東京大衆歌謡楽団」と言って今は2015年にメジャーデビューを果たした
    3兄弟の昭和歌謡曲を奏でる楽団で、去年春頃にテレビで初めて聞いてそれからのフアンなのですが

    ボーカルが長男の高島孝太郎34才、アコーデオンが次男の高島雄二郎32才、ウッドベースが参男の
    高島龍三郎30才、去年からバージョンを4男の高島圭四郎28才が未だ見習いですが時々出ます。

    私が16才頃、終戦直後位によく聞いた歌謡曲で中高年にもの凄く支持されて最近は若い人も多いです。
    それがいい年をしたおっさんではなく若くて、考えると今の嵐より若い世代がきちんと背広姿で
    制限字数になり次に

  • だいしょうじ

    だいしょうじ

    2018/05/27 17:52:53

    yutakaさま
    夫が46歳で部長にトップ昇進でした。先輩方から可愛がられ、後輩からも慕われていて、毎日仕事が終わると麻雀で、家庭での夕食はほとんどない生活でした。
    あまりお酒が強くなかったのに、お祝いの飲み会が続いて、過労で倒れたのです。
    私は44歳でしたから、もう介護生活は25年になりますね。

    ストレスが強い生活は、介護生活に入る前からでして、胃潰瘍数回のほか、ストレスでかかる病気は耳以外は全部やっておりましたよ。
    神経過敏で神経性の大腸炎にもなっていて、外出がなかなかできない状況でした。でも夫が倒れて、一年近く入院した間は、必死で病院通いしていました。

    そのころお金のかからない遊びで、パソコンのゲーム世界を見つけました。
    いろんなところを渡り歩いて、友達となった人に次のゲームに誘われての繰り返しでした。
    そのなかで「いしび」さんと仲良くなり、ここに誘われたのです。
    彼とは年賀状も出している間柄で、弟のような存在です。
    そのいしびさんをここに誘ったのがtokeisouさんでした。ゲームでの友達でしたがそれほどは仲良くしていなかったのですが、ここにきて仲良くなりました♪
    というわけで、この二人とは敬語も抜きで、からかいあっています。
    別のルートのゲームで知り合ったのが「みう」さんです。
    こちらも「いしび」さんと同じくらい長いおつきあいで、FBでもつながっているんですよ。

    夫がお風呂を出たので、ここまでにしますw

  • yutaka

    yutaka

    2018/05/27 17:00:21

    だいしょうじ様
    戦時中は海軍か陸軍かと言えば、ヤッパリ海軍は男前でないと、
    今でいうイケメンですか、それに制服が素敵で女性は憧れだったらしいです。

    矢張り海外に出向くので体形もよくないとずんぐりむっくりでは一寸駄目でしょう。
    その点陸軍は今流にいえばダサかったと思います。

    海軍士官になる為には小学4年生頃に海軍幼年学校に入学して17,8才頃には
    海軍兵学校「海兵」に入らねばなれませんから、余程の秀才でないと
    入学出来ません。だから憧れの的だったのです。

    子供の頃、近所に一人幼年学校に入った賢い子がいたのを思い出します。
    私はまだ戦争中は女学生でしたし、奥手だったからそんな憧れまでは無かったです。
    唯いつもお腹が空いていました。

    次にだいしょうじさん ご自身の事ですが、ご主人様もキャリア組として出世コースを
    ひた走って居られ部長になられて間なしに倒れられたそうで、何と言う不運な事でしたか、
    それからはご主人様の介護生活が始まったのですか、でしたらもうずい分長期になりますね。

    その後、貴女も倒れられたんでしょう、無理されてたのでしょうか、
    そうなる迄に血圧が高いとか何か前兆症状は無かったんでしょうか、検査もされてたでしょうに
    本当に不運としか言えませんね~
    今はカラオケや美術館巡りなどで楽しまれたりして、お気持ちにも余裕がお出来になったのでは、
    と思われますが。

    ここ二コタンでお喋りしてストレスを発散させましょう。では(ρω*)ノ~マタネー

  • だいしょうじ

    だいしょうじ

    2018/05/27 10:36:50

    yutakaさま、
    そうなんですか!海軍士官ってそんなイメージなんですか!!

    実は夫の父親も海軍士官でしたが、
    嫁の私をとてもかわいがってくださいました。
    義母は戦後たいへんだったころ家庭科の教師で家計を助けたそうで、
    とても料理上手な人で、私はいろんなことを教えていただきました。
    母のように頭からバカにせず、優しく「こういうやりかただとうまくいくのよ」って言ってくださるので、本当にうれしかったです。

    母が入院したときに、
    母の私に対する態度がきつく見えたのでしょうか(私はいつものことできにしていませんでしたが)、同室の方からこっそりと「お姑さんですか?」と尋ねられ、
    「いえ実母です」と答えたら、ほっとなさっていたのを覚えています。
    他人の目からは、やはり異様にみえたのでしょうね。

    橋立の資料館はうちの本家です。展示品は我が家のものが大分入っています。
    実家の片付けは、まずそういうところからはじまりました~笑。

    橋立村長さんのお嬢さんよりも私の母の方がお金の苦労をしていたと思います。
    財産税でほとんどとられましたし、
    商売のほうもあまりうまくいかず(父は商売は苦手でした)、
    体面だけはがんばらねばいけなくて、普通の方よりも家計が苦しかったと思います。

    私は夫が倒れたことで、生来の吝嗇に拍車がかかって、体面は無事保てましたが、「無理・むだ・むらのない暮らし」を心がけています~笑。

    書きたいこといっぱいでごめんなさい。
    また書きますね♪

  • yutaka

    yutaka

    2018/05/26 16:07:43

    だいしょうじさん
    そうそうお母様は北前船の船主の跡取りお嬢様でしたね。
    旅行で北陸を廻った時、あの資料館でしたか拝見しましたよ、

    凄いお屋敷も上がって廻り廊下を巡らせた広い庭園も眺め、ため息ついたものでした。
    お金持ちのお嬢さんで性格も元々気位の高い方だったんでしょうね。

    海軍士官と言えば戦争中ならみんな憧れの的だったことでしょう、失恋されたのが
    お母様としては忘れられない心の痛手が、貴女のお父様にも憎悪の目が向けられて
    お子さん達もそのあふりでその様なことになったのかと思われますが、

    私らの年代は子供の頃から日本は戦争していて小6に(当時は大東亜戦争)太平洋戦争が
    始まり旧制女学校3年生になる3月に大阪から大聖寺に疎開し大聖寺高女に転校しその夏、
    学徒動員で軍需工場に4年の夏に敗戦を迎えました、私も3月生まれで当時15才でした。

    大聖寺は父の仕事の関係で行ったので敗戦と同時に会社も頓挫してしまって終戦後の惨めな
    暮らしは皆がそうだったので若い私らはお腹が空いて辛かったけど夢もあったし、それ程
    苦労とは思わなかったと思います。

    大聖寺から歩いて北潟迄2里、吉崎まで4里の道を同級生とさつま芋を求めてよく通いました。
    魚を求めて橋立村へも行きました。当時はただ歩くだけです。

    その頃、橋立村の村長の娘が同級生に居ましたね~
    後年、山代温泉での同窓会でその村長の娘さんと一緒の部屋になった事あり、やはりお金持ちは
    鎌倉の豪邸でゴルフ三昧だそうで着てる服も君島のブランドで皆に羨ましがられていました。

    話がそれてしまって何処までも続きそうで此処らで終わります(ρω*)ノ~マタネー

  • だいしょうじ

    だいしょうじ

    2018/05/26 14:07:59

    yutakaさま、
    大聖寺をご存知なら、あのあたりで隆盛だった北前船のこともご存じだと思います。
    私の家は分家とはいえ船主の一族でした。
    戦前、母が育った時代は、今では考えられないほどの大金持ちだったそうです!
    その跡取りの一人娘でしたから、お嬢さん育ちにもすさまじいものがありました。
    祖母と祖父との仲がよくなくて、跡取り娘の母を手のうちにおさえておくことが祖母の力となっていたので、母と祖母との関係もまともじゃなかったのだと思います。

    そして母が戦争中に恋愛した海軍士官学校の方とのお話は破談になり、戦後うちに養子にきてくれるということで私の父と結婚しました。
    父は母のことを気に入って結婚したのですが、徹頭徹尾母は父と父の実家をバカにしていました。
    父の実家は伊達藩に仕えた上級士族でしたし、父の父親は北海学園を創立した人で、道議会副議長にもなり、それなりに尊敬されていた人でしたが、
    母にとってはそんなことは意味もないことだったようです。

    妹の出産は嫁ぎ先で、でした。手伝いは出産経験のない私が頼まれました。
    私は長女の跡取りでしたから、母のお眼鏡にかなうようなしつけを受け、それがうまくいかないので怒られてばかりでしたよ。
    ピアノが下手、背が低い、視力がわるい(猛烈な乱視で楽譜が線が五線じゃなくて指で数えなくてはわからないひどさ)、センスが悪い、スポーツが下手・・・。

    妹が恋愛結婚でお金持ちの家に嫁ぎ、きれいなインテリアを工夫して暮らしているのに、
    私は転勤族で汚い社宅で、インテリアなど、釘一本勝手に打てない状況だったのに、センスが悪いと罵倒されました。
    さいわい優しい夫に恵まれ、義父母もとても優しくしてくださいました。

    出世コースのトップを走っていたのに、同期入社のトップ昇進で部長になって、その一か月後に夫が倒れました。
    さすがに風当たりが弱くはなりましたが、
    そのころから母の認知症もはじまっていたようです。

    友達から「変わったお宅だったわね」と言われています。
    自分の世界しかしらないから、「お母さんを大事に」とか、「優しいお母さん」とかっていう言葉がよくわかりません。
    私も今日はここまで~♪

  • yutaka

    yutaka

    2018/05/26 11:47:48

    だいしょうじさん
    古いのを探して此処へ辿り着きました。

    お母さんのお話はよくお聞きしますけど、お母様は相当お嬢様育ちでいらっして
    我儘で来られたんでしょうね。でないとお年を召されて尚、お子さんに対して
    威圧的に接するなんて出来るものでは普通は出来ませんよ、まして孫にもでしょう。

    私は娘と8才下に息子の二人の子供が居ますが、秋には60才と52才になる子供です。
    育てる時は私も仕事してましたのでそれは厳しくしつけよく叱った怖い母親だったと思います。

    だけど結婚して独立した子供には意見らしいことは何も言いませんし、相談された時は
    真剣にアドバイスはしますが、普段の生活でも、少しでも幸せに過ごして欲しい願いが強くて
    不眠症になってしまう程、子供らの家庭の事を何時も案じています。

    実際には孫は世間でいう程可愛いとは思わないんです。息子、娘の為に孫も恙なく育って欲しい
    いい子であって欲しいとの願望はあっても、やはり最愛は我が子だけです。
    一旦家庭を持った独立した子供には心で思っても嫌な事など一切言いませんし、まして孫達には
    年寄り臭く思われない様気を使っています。

    あまり色んなことを思い過ぎて痩せています。中年の頃から小太りに憧れたものでしたが
    最高で40㌔はあったのに今は34㌔でずっと変化なしで一応悪いところなしで熟睡するために
    安定剤だけ貰っています。 ただ齢ですのでそれなりにしんどくて力は出なくて、

    でも一日2食の食事2人分作っています。私は痩せていても主人よりよく食べていて
    彼は91才で彼も元気というか頭だけ痴呆症で週Ⅰ回デイサービスに行きその日に行きたい所へ
    私は行ってます、例えば美容院とかね、彼はヘビースモーカーで酒好きなので私がついてセーブ
    かけるのが日課になっています。 体は丈夫で頭だけ呆けるのは連れ合いの身にとって
    空しいものです。 今日は此処までにしますネ (ρω*)ノ~マタネー


    言いませんし、