きいてニコタリーナ

きよ

ちょっと整理したいんだけど

青春について語る青春を終えきれない25歳

日記

昨日は昨日で、久々のカレンダーに合ったお休みに

興奮しちゃってなかなか眠れなかったし、

今日はなんとなくぼんやりしちゃって何したらいいか分からない。

てか今めまいするんだよな。なんでだろ。

木毛も届いたし、教室の復習したいんだけどな。

あと別に今日じゃなくていいけど映画観に行きたい。

タイバニらいじんぐ観たい。素敵なネタバレを見てしまった。



こないだ帰りのバスの中で考えてた青春についてのアレ。

思春期は、決して青春ドラマのようにキラキラしたものではない。

親との軋轢、泥沼の友人関係、永遠に続くかのような学校生活。

タイトでストレスフルな、この最後の楽園のとき。

怒涛の勢いで自我に流れ込む他者に反発し、

肥大した自意識が、自身の狭隘な世界を破壊する。

苦悶し、軋み、断末魔の悲鳴を上げながら。

そして、もはや己の手は汚れてしまっているということを知るのだ。

……青春について語ろうとすると、なんとなく抽象的になってしまうけど

まあ、私のこの文章も、大して目新しい表現ではないな。

全ての人が通る場所、そして全ての人がそこで傷を負う場所であるからして、

古来たくさんの人間が、このイニシエーションを物語化してきた。

そう、青春の物語はそのためにある。というのが、私が思ったこと。

キラキラした青春なんて物語の世界にしかない、と訳知り顔で言う者もいるだろう。

しかし、物語の中にはある、確かにそういう世界を描くことができる、

ということが大切なのだと今の私は思う。

傷を負い泥にまみれ、ぼろぼろになってようやっと青春時代から這い出した人が、

そこで初めて振り返り、自分の生きた青春時代について、言葉にしようとしたら。

紡ぎだす言葉は、彼の人の経験したそのままの青春を、きっと語らないだろう。

それは、トラウマの物語。ありえてよかったはずの、あの輝かしい日々。

傷を癒すために、思い出を美化する。人間に与えられた許し。忘却と想像力。

自分の生きた青春を、輝かしい物語に編み直すことで、

前を向き、その先の人生を一人の人間として生きられるなら、

どうしようもなく歪んでしまった自分を許容できるなら、

その心の作用は、決して否定されるべきものではないのだろう。



……えー、長くなりましたが、これが、私がカゲプロを好きな理由の一つです。

ありえてよかったはずのキラキラした青春を送る子供たち。

なべて青春ものの物語というのは、今まさに青春を送る子供のためではなく、

ほうほうの体で青春から脱出したばかりの、もう子供ではいられない、

大人になるべき人たちのものではないかと思うのです。

少なくとも、そういう人たちを射程に入れた紡ぎ方をするほうが、

一つの神話としての寿命は長くなるような気がする。

また、そういう一つの神話としての性格を捨て、

ひたすらリアルな思春期の現実を描写した物語って、

なんかただ息苦しくて苦手なのは、たぶんそのせいです。

もっと夢を見せてくれよ、って思う。

物語に「共感」を主に求める人は、そういうジャンルの物語を

あー分かる分かるって読むんだろうなあとは了解してるけど。



……長めの文章を書いてたら、頭がやっと目覚めてきた。

よーし作業するか。しちゃうか。