のたもた

のたもた

ブログふっかーつ!!
そんな訳で、書きたい事を書きます。

それだけです。

ちゃんと英訳してくれたら

30代以上

ちゃんと英訳してくれたら、私はいくらでもメールは出せないけど
手紙は出せるので手紙は出すよ。
みんなで此の日本の為に頑張ろう。




===============
韓国は嘘を国際社会に広めています。

==============
従軍慰安婦のでたらめな証言
~~~~~~~~~~~
日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長が「慰安婦は必要だった」などと発言したことをめぐり、来沖した韓国人元従軍慰安婦の金福童(キムボクトン)さん(87)は18日、「必要だったと言うだけで、(謝罪など)何もしないのは人間ではない」と述べ、慰安婦の必要性を認めながら政治家として謝罪しない橋下氏の態度を非人道的と断じた。
中略

 金さんは14歳のころ旧日本軍に「軍服を作るために日本へ行く」と言われて連行され台湾、広東、香港、マレーシア、スマトラ、インドネシアなど前線地で8年間、22歳になるまで慰安婦として従軍させられた。(2013/5/21 沖縄タイムス)」
~~~~~~~~~~~~
★↑良く見て下さい。
2013年に87歳と言えば1926年生まれです。

14歳で連行されて従軍慰安婦にされたと言っています。

1940年が14歳の年です。

第2次世界大戦が始まったのが1941年です。

何とあの時代の戦争が始まる前に従軍慰安婦だったと言う事です。

更にその後8年間。
1948年までになります。


1945年に太平洋戦争が終わっています。

こう言うでたらめな証言を彼女はしています。

~~~~~~~~~~~~~~~~
       以下はすべて、従軍慰安婦として有名な「黄錦周」(ファン・クムジュ)さん1人による証言です。

(1)従軍慰安婦と戦後補償 / 著者:高木健一

「生活は貧しく、12歳のときに100円で売られた。ソウルの金持ちの家で小間使い。
            1938年に威鏡南道ハムン郡で女中をしていた時に、その家の娘の身代わりとなって満州に連行され従軍慰安婦となった」

(2)国連・経済社会理事会クマラスワミ報告 / 1996年1月4日

「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に、日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだと思いました。」

(3)日本TV企業"TBS"「ここが変だよ日本人」というTV番組より(従軍慰安婦問題)

「私は19歳で学校を卒業する25日前に、日本軍に引っ張り出され、仕方なく慰安所に行ったんだ」

(4)「日韓社会科教育交流団韓国を訪問/1997夏期

「満18歳になったある日、男がやって来て、村から娘を提供するように言いました。」

(5)旧日本軍「従軍慰安婦」の証言を聞く集会 / 1997年12月5日

『村の班長(日本人)に「一家に一人は行かなくては」と脅され、1941年、韓国を離れましたが、到着した場所は、慰安所でした。』

(6)黄錦周さんの証言を聞く会 / 2001.07.17 / 東京大学にて

「14歳のとき、いわゆる「少女出」で満州に連行され、皇軍兵士のセックスの道具にされた。つらい体験だった。」

.http://makizushi33.ninja-web.net/
~~~~~~~~~~~~
↑◎此れだけ変わる証言の何を信じろと言うのですか?




最初の「従軍慰安婦の軍の関与と強制連行」を載せたのは
日本の朝日新聞です。


★更に此の新聞社は「カンボジアの大虐殺」をなかったと報道した新聞社です。

===================


◎朝日新聞がカンボジア大虐殺を「優しい」と評した――証言者の死で蘇る記録
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/531513
==========

朝日新聞の「従軍慰安婦の強制連行」の記事の元になった文章を書いた小説家が、あれはフィクションだと認めています。
=========
従軍慰安婦が吉田清治の創作と知る人が少ない理由は? -
2012/06/27 - 従軍慰安婦が、左翼の吉田清治のフィクションに端を発しており、しかも、彼自身が、のちに、ねつ造であったとインタビューで生々しく告白しています。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7558662.html
=====================



◎戦後すぐに米軍は慰安所について調べています。
その資料も残っています。
 

*********
アメリカに残っている公文書より所謂十雨軍慰安婦の記述
==============
9 前線地域における日本軍慰安所

以下の記述は、CSDIS(I)において行われたM739の尋問、ならびに戦時情報局によりレド捕虜収容所において行われた朝鮮人「慰安婦」(20名)にたいする尋問(1944年9月21日付報告)に基づくものである。

情報提供者
1944年8月10日、ワインマウ付近において妻および20名の陸軍慰安婦とともに捕虜となった民間人の慰安所経営者M739。

M739と妻と義姉(妹)は、朝鮮の京城で料理店経営者としてかなりのお金を稼いでいたが、商売が不振に陥ったため、より多くの金を儲ける機会を求めて、朝鮮からビルマへ「慰安婦」を引き連れて行く許可を京城の陸軍司令部に申請した。略

M739は、朝鮮人未婚女性22人を買い受けたが、彼女らの両親に対する支払額は、それぞれの性格、容貌、年齢に応じて300円から1000円であった。これら22名の女性の年齢は、19歳から31歳であった。彼女たちは、この捕虜の独占財産となったのであり、軍は彼女たちの人身売買からは何らの利益も得なかった。


M739とその妻は、料理店の経営を義姉(妹)に委ねたうえで、1942年7月10日、買い受けた女性22名を引き連れ、703名の女性(すべて朝鮮人)と90名ほどの日本人男女(ほからなぬ彼と同じように人格低劣な連中)の一行で釜山を出航した。


「慰安婦」はすべて、次のような契約で雇われていた。慰安婦は彼女自身が稼いだ額の50パーセントを受け取り、交通費、食費、医療費は無料だった。交通費と医療費は軍当局によって負担され、食料は、軍の貨物廠の援助のもとに慰安所経営者によって購入された。


M739の施設では、慰安婦一人の稼ぎの最高額は月に約1500円、最低額は月に約300円であったが、この慰安所の規定により、慰安婦は、最低でも月当たり150円を経営者に支払わなければならなかった。
      
*******

上↑をまとめた所
http://ameblo.jp/lancer1/entry-10033961062.html

================

◎これらの事を全て総合して精査すると韓国の主張が如何にデタラメなのかが
解ります。

其れを元に何故「河野談話」は作られたのか!?
其れを日本国民は調べよと言っています。

すると韓国のあの大統領が異常に興奮して真実を調べる事を批判しました。
可笑しいと思いませんか?
===========
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




◎日本語でも良いので多くの人が多くの所に此の真実を知らせて下さい。