思想は生きる為生かされる為に
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1 人と宗教の縁について
幸せも不幸せも、安心も不安も、根本的には誰のせいでもなく自分の考え方や生き方のせいであると気づくところから宗教の扉は開きます。
たとえば、「酒好きの父親のために自分は不幸だ」と考えるかも知れませんが、そうした若年期を過ぎてどうなるかは人それぞれです。
親と同じように酒に溺れる人もあれば、
酒の恐ろしさが身に沁みて酒に流されないよう気をつける人もいれば、
酒による依存症の撲滅運動に汗を流す人もいることでしょう。
そもそも、自分の眼を通してしか見えず、自分の耳を通してしか聞こえず、自分の鼻を通してしか嗅げず、自分の舌を通してしか味わえず、自分の肌を通してしか感触がわかりません。
自分が自分と思わなければ、自分すらいるかいないかわかりません。
たとえば、同じ赤い色でも人によって見え方が異なり、受ける感じも異なるし、同じ音でも、人によって聞こえ方が異なり、受ける感じも異なります。
もちろん、言葉も同じく、ある人にとっては嬉しい励ましとなり、ある人にとっては心を切り裂くナイフともなってしまいます。
つまり、自分の心に映る世界は自分の心のありようによってとらえられ方が違うので、自分の心のありようを無視していかに幸せや安心を探しても、ザルで水を掬う時と同じ結果になりかねません。
人はすべて、賢い一方で愚かであり、強い一方で弱い生きものです。
自他へ起こる理不尽、不条理、不可抗力と思われるできごと、あるいは自他の死にぶつかった時、
賢く強く対応できる人もいれば、
愚かさや弱さが浮き彫りになり、潰されかねない人もいます。
追いつめられてどうなるか?
そこで、これまで、現象世界の裏にあってあまり意識されていなかったこの世の成り行きや、自分という存在の足元、生に伴っている死、そして超越的な仏神の世界が観えたり実感されたりします。
経典や小説や誰かの一言が今までとは違った新鮮さで心へ響いてきたりもします。
そしてそれまで培われてきた心が何か象徴的なできごとに鋭く感応した時、心は哲学的方面や芸術的方面や宗教的方面へ強く動きます。
こうして自分の心が自分にとって問題となり、聖者の教えが問題へとり組む重要な切り口であると実感されれば、世俗的原理と無関係にはたらき、日常的な喜怒哀楽に揺るがせられない世界へ踏み込み始めています。
もちろん、こうした成り行きは〈それ〉と意識されず、〈そう〉なっているものです。
2 宗教と世間への態度について
せっかくこうして揺るがない幸せや安心を得られる可能性のある生き方へ向かっても、生活は世俗的原理からなかなか離れられません。
たとえば、仏教は徹底して意志を重視し、結果を問わず、み仏は意志のありようを平等にご覧になっておられると説きます。
だから、技術は未熟でも、クラスメイトの誕生日を祝おうと懸命にピアノを弾く子供には大きな拍手を送られ、他人の歓心を買おうとこれ見よがしに技術をひけらかす人は渋面でご覧になっておられることでしょう。
清浄な善き意志を持つことこそ、仏教における理想的人間像です。
最も古い経典の一つとされている『法句経』は説きます。
「悪行をなさず
善行を実践し、
自分の心を清める
これが諸々の聖者の教えである」
それなのに、教団も信徒もいつしか結果重視の世俗的原理にはまり込んで行くのです。
信徒へ信徒の獲得競争や、お布施の集金競争をやらせ、〈成績〉の優秀な者は組織内の地位が上がる。
こうした宗教教団は世俗的原理によって動き、世俗的力によってより大きな幸せ感や安心感を与えようとしており、堕落した姿です。
やがて教団は世俗的原理そのものをめざすようになります。
政治権力を求め、財力を求め、賞賛を求めます。
こうして教団は世俗的原理から離れて智慧をはたらかすのではなく、世俗的結果を求める日常的な知恵や知識で動き、信徒は日常的な満足感を喜ぶようになります。
確かに、教団は言うでしょう。
「ご本尊様は喜んでおられます」「経典の理想を実現するためです」
しかし、よく考えてみましょう。
会社で部長になった満足感と、オウム真理教で正大師になった満足感と、教団で高い地位を与えられた満足感と、どこが違うのでしょうか?
もちろん、こうした満足感を否定するのではありません。
そうした〈満足感〉とは異なったものを求めないではいられないからこそ、そうした〈地位〉などとは無関係な心のありようを求めたからこそ、宗教を信じたはずではなかったのかと問いたいのです。
本尊のためや教団のためという目的によって、世俗的世界と変わらない心を喚起されているとてつもない欺瞞に気づいて欲しいのです。
実態を直視すれば、ことは明らかです。
堕落した教団内のあちこちで、高慢心や嫉妬心や権力欲が明滅してはいませんか?
いつの世も、こうして宗教は堕落の道をたどりました。
世俗的力を決して志向せず、自他の苦を抜くために、一心の錬磨をこそめざしましょう。
『法句経』は説きます。
「花の香りは風に従って広がる
徳の香りは風に逆らってでも広がり、
神々の世界へも届く」
だからといって、社会のありように無関心であれというのではありません。
社会の悪しき共業(グウゴウ)を消すために宗教を信じる者の志すべきは、心を錬磨し、自(オノ)ずから広がる徳の香りで共業を清めることです。
いかに義憤を持とうと、いかに信仰の弘法をはかろうと、決して世俗的権力欲、財欲、名誉欲へ走らず、宗教的信念から逸脱せぬよう自(ミズカ)らを戒めつつ進みたいものです。