Mary Mallonの館

言い訳】スピの愛の定義は・・【逃避

人生

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先日、サッカーワールドカップに出場した選手団が帰国した。今回活躍が目立った本田圭佑選手が、インタビューの際、こんなことを言っていた。

「チームメイ トは仲間であり、親友です。でも、自分達はただの仲良しこよしの集団じゃないんで、お互いにきついことも言うし、雰囲気が悪くなることもあります。でも、 試合に勝った時なんか、そんなことは全部吹き飛んでしまう」

帰国前日にも、代表選考から練習風景まで、ワールドカップ出場までの彼らの様子を1年間記録したドキュメントをテレビで放送していたが、練習時の様子など、鬼気迫るものがあった。罵声や怒声が飛び交い、ピリピリした緊張が漂う。否定や批判は当たり前。フォーメーションの練習中、飲み込みの遅いチームメイトに苛立って、「あのフォワード変えて!イライラする!」と本人を前に怒鳴った り。そんなことはしょっちゅうだ。

相手を否定しない。批判しない。裁かない。愛のない言葉を言わない―スピリチュアリストが定義するように、それが真の愛だというのなら、日本チームには「愛」などなかったと言える。

だが、ベスト8進出を賭けたパラグアイ戦で、惜しくもPK合戦の末敗れた時の彼らの様子を見れば、スピリチュアリスト達が説く「愛」の定義など、完全な嘘っぱちだということが分かる。

無言で抱き合ったり、肩を叩いたり―お互いを気遣い、労うあの場面には、そんな安っぽい定義などは当てはまらない。シュートを 外したチームメイトにも、くどくどと「心や気持ちが軽くなる言葉」など掛けていない。だが、彼に対する仕草や表情から、心の内は十分伝わってきた。

チームメイトとなってからの1年、その間彼らはさんざんぶつかり合ってきた。
「あんな奴すぐ交代させろ!使えない!」
「おまえのやり方じゃ通用しないんだよ!」
とお互いを否定し、批判したこともある。相手を萎縮させたり、またその逆もあった。いわば、スピリチュアルの定義とはまったく逆のことをしてきたのだ。

だが、そこにはちゃんと「何か」が生まれ、存在していた。

私には、「愛とは何か?」ということは、未だによく分からない。だが、彼らの姿を見ていて、これだけは思うのだ。

否定しないこと。批判しないこと。裁かないこと―巷で言われている定義は、ただの「逃避」であり、自己保身のための「言い訳」に過ぎないと。

例えそれらをしたとしても、「愛」、もしくは「そのようなもの」、もしくは「それに値する何か」は、何物の影響も受けることはない。

むしろ、何かの影響で崩れるような脆いものなら、それは多分「愛」ではないのだ。

彼らは、「全力を出し尽くす」という決意の下、ひたすら全力でトレーニングに取り組む。

チームメイトが出すパスに反応できない自分自身への苛立ちを、
「その感情をただ感じつくす」などという妙な修行で誤魔化したりしない。

即座に次のパスを取りに走る。シュートが成功した時のイメージトレーニングをすることはあっても、
ボールを蹴る前に、「シュートを決めさせてくれてありがとうございます」などという「先取りの感謝」はしない。
ハイヤーセルフに「どんな作戦を 立てたら勝てますか?」などと尋ねたりはしない。


スピリチュアルとは多分無縁の、「他の物には興味ねーし」とサッカー一筋に打ち込んできたサッカー小僧達が証明してくれたものこそが、限りなく真実に近いものではないだろうか。

「このチームでもっと戦いたかった」

口々に言う彼らの様子を見れば、それが口先だけの言葉でないことが分かる。

たとえ相手を否定しようが、
批判しようが、
「愛のない言葉」を連発しようが、
スピリチュアルの世界で「タブー」とされていることをしたとしても、「本物の関係」は作れるのだ。

セミナーをはしごして身に着けた上っ面だけのエセ定義は、ひたすら一つのことに全力で取り組んできた人達が放った「事実」によって覆された。甘くて優しいものだけが「愛」ではない。それに該当しないものはすべて排除するその姿勢、「逃避」以外の何ものでもない。


こんな明白な事実を目の当たりにしても、それでもまだエセスピリチュアリズムにしがみついて「仲良しごっこ」を続けるんですか?「スピリチュアリスト」を自称する皆さん?




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