うみきょんの どこにもあってここにいない

うみきょん

日々のはざまについて、
地上でみた夢の記憶、
地中で見られた眠りのすきま、
絵画や小説、想像世界、花たちなどについて
静かに渡りを記述しています。

カナカナカナ…

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欠かせない夏の風物詩。
というのとは、すこしちがうけれど、
ヒグラシの声。
カナカナカナ…。
あの声は、どうしてあんなに哀しいのだろう。
わたしの部屋からも、ごくまれに聞こえることがあるけれど、
たいていは、明け方か夕方、あの大好きな崖の林の近くで、鳴いていると思う。
昼間は聞こえない。
夜と朝のはざま、昼と夜のはざまで鳴くから哀しいのだろうか。
夕景の色がいつもそうであるように。

昔、いっしょに暮らしていた男が、ヒグラシの声が好きだった。
たぶん、彼にヒグラシの声が哀しいと
気付かせてもらった気がする。

それまでは、知っていたけれど、ただの声だった。
つくつく法師のほうが、寂しいとおもっていたかもしれない。
お盆の頃からオーシーツクツク、オーシーツクツクと聞こえる、
あの声に、
夏休みも半分過ぎてしまったと、いつも思い出させられたから。
終戦記念日を過ぎると夏休みはあっというまに終わってしまう。
つくつく法師は、前触れを知らせる鐘のような声になっていたから。

ヒグラシの声を哀しいと思うようになったのは、いつからだったか。
多分、彼がヒグラシの声を、うれしそうに聞いているのを見た時から。
うれしそう、というよりも、惹かれるといった面持ちで、
淋しさをおいかけんばかりの静けさで。

彼は6、7年前に亡くなってしまった。
年上だった。
私とちょうど干支がひとまわり違ったけれど、亡くなるには早すぎた。
ヒグラシの声は、そのことも、私に思い出させてくれるようになり、
ますます、哀しい…。

最近、親戚関係で、日光に行った。日光東照宮、初めて訪れるところだった。
あの社殿を囲む森では、ヒグラシたちがよく鳴いていた。
それは、ミンミンゼミのようだった。
あまりに多くのヒグラシたちが鳴いているので、すこしも哀しくなかった。
ただ、森閑とした空間に、やはり、ヒグラシはふさわしいと思ったが。
あんなヒグラシもあるのだ。

日光から帰ってきて、早朝バイトにいく途中、ヒグラシの声をきく。
やはり、哀しい…。