✿古山詩織✿さんの日記

✿古山詩織✿

「N准教授」にストーカーされて殺されそうな毎日!

朝日新聞9月11日(金)日刊文化・文芸から

日記

朝日新聞9月11日(金)

日刊。文化・文芸から34ページに、作家で僧侶の瀬戸内寂聴さん

のエッセーが下記のように記載されていました。


寂聴 残された日々

4 もう一人の男


情熱と乱心こそが芸術家の魂


谷崎潤一郎全集が、中央公論新社から新しく出版されている。

その月報を依頼されたので、連日、谷崎作品に読みふけって

しまった。

今85年前、昭和5(1930)年8月、最初の谷崎夫人千代が谷崎

と離婚し、谷崎の友人佐藤春夫と結婚する事を3人連名の

挨拶状として、新聞に発表した妻譲渡は、つとに有名な話

だが、実はそのほぼ1年前に、千代はもう一人の男、谷崎に

弟子入りしていた和田六郎と、結婚寸前までいっていたことは、

あまり知られていない。



谷崎の末弟終平が、事件の関係者すべてが世を去った昭和63

年「文学界」5月号に、はじめて真相を発表し、後に出版もした。

世間は一応驚かせられたものの、かつての妻譲渡事件ほどの

衝撃はなく、噂も長く続かなかった。

和田六郎は終戦後に佐藤春夫にも弟子入りし、春夫が認めた

「天狗」という推理小説の短編が昭和23年の「宝石」に掲載

されるや、たちまち鬼才の名をほしいままにした逸材であった。

鉱物学者として、先駆者的存在だった和田維四郎の息子で

日本で最初の鉄筋コンクリートの家何不自由なく育ち、貴公子

然とした風貌と風采が目立っていたという。



和田家と谷崎は大正12(1923)年夏、箱根小涌谷のホテルで

知り合っただけの仲だったが、六郎はその親交を利用して、

次の夏、やはり有馬温泉に避暑に出かけていた谷崎の許に

押しかけてきたのだ。


谷崎は家族のいる宿の外に別の部屋を借り、終日仕事に没頭

していた。置き去りにされている家族の相手を、専ら面白おかしく

務めて飽きさせなかった六郎の気の利いた奉仕に、千代が

次第に惹かれていった。


千代は谷崎から性が合わないという理由で冷たくされ、谷崎は

妹のエキゾチックなせい子に惹かれ、15歳の時からせい子を

我が家に引き取り、性的関係を持っていた。

まわりの人々はすべてそれを知っているのに、有り得ないことと、

一人信じないで夫に尽くしつづける千代の純情な鈍感さに、

谷崎はいっそういらいらして、人前でもステッキでなぐる、ける

の暴行を加えるようになっていた。


千代に同情した佐藤春夫が、同情から恋になり、谷崎はそれを

積極的にそそのかして、二人の結婚をすすめておきながら、

いざとなったら言を左右にして、千代との離婚をしなかった。

一本気な春夫は、そんな煮えきらない谷崎と絶交して、放浪の

旅に出てしまった。

六郎はそんな噂も充分承知していただろう。春夫との純情と

熱情にはじめて恋心を開花させられていた千代は8歳下の六郎

の若さの魅力に、いつの間にか心が燃えるのに抵抗

できなかった。

春夫とは、混浴したりしながらあくまでプラトニックな関係を

保っていたが、一度恋情に火がついた千代は、六郎との間には

、性の魅力を拒むことは出来なかった。

谷崎は千代の告白からすべてを承知しながら、またしてもそれ

をそそのかすようにして、千代が2、3ヶ月の六郎の子を流産

した時は、病院には自分の子だと告げてかばい、二人を

いよいよ結婚させるため、六郎の兄を説得し、住む家まで

用意する。絶交したきりだった春夫を呼び帰し、今度の件を

すべて報告した。千代も春夫に泣いて相談したという話が

伝わると、六郎は決然と千代との結婚話を一方的に解消して

しまった。

谷崎は昭和4年に書き終えた新聞小説「蓼食う虫」に、同時

進行形で、これを小説に仕上げている。

妻譲渡事件が新聞に出たのは、その1年後のことであった。



流行作家や詩人たちが、こんな非常識な淫らな恋愛沙汰に

ふりまわさてているのがおかしいものの、当時の小説家や詩人

のあまりのおとなしさに唖然としている私は、ここに書いた人々

の愚かしい迷いや乱行にむしろなつかしさを覚える。

本来、芸術家の本質は、ひかれた軌道をまっすぐ歩めないほど

の情熱と乱心が胸に巣喰っているものではないだろうか。




長く記載文を読んでいただきましたが・・・・・




ん・・・・・・・・・・・

所で、谷崎潤一郎さんって、どう思う・・・・・・?