ヘルメス

ヘルメス

昔、昔ギリシャにゼウスという神がいました。
その末っ子の名前はヘルメス!
その800代目の子孫が僕ちゃん!
決して嘘八百ではありません。
自由気ままな僕は泥棒や山賊の守り神

明日は大雪警報が出ているけど・・・

日記

 

 

 雪も宗教も実はとてつもなく恐ろしい(影響が大きいという意味で)ものかもしれない

雪をロマンチックに思うのは本当の雪の怖さを知らない温暖な地方の人々

宗教を有難く思うのは人間の尊厳を知らないプリミティブな人々

  僕が宗教を肯定的に見ることができるのは・・・

学生時代ゼミで死刑廃止を議論したとき、歴史上の極悪人といわれる人々が、いかに多くの人を殺し、傷つけ後悔の念を全く見せず処刑されたか、弁護の余地もないほど骨の髄まで極悪非道を繰り返したか、そういう死刑肯定論に対し、赤ちゃんのときから悪人はいない、人としての愛情を知らないいわば獣として育ったから悪人になった、そういう人間が最後に宗教に頼り心から懺悔し、悔い改めるなら死刑を廃止してもよい、そういう意見に賛同した。

  僕には2つ下の弟がいる。その弟がサンタクロースの存在を信じていた頃、僕はもうその正体を知っていた。でも、ワクワクドキドキする弟に事実を教えたり、そんな弟を馬鹿にしたりはしなかったよ!

  近代ヨーロッパでも同じようなことが起こった。神の存在を信じることができない人々が生まれたことだ。ガリレイの地動説、ダーウィンの進化論、デカルトの個人主義などはキリスト教的な価値観を覆した。聖書に書いてあることと矛盾することが次々と明らかになり、カトリック教会もとうとう信仰は意志の問題と宣言した。(これは意外に知られていない事実!)

 もっともそんなことは中世のストア哲学や神学ではずっと前から言っていることなのに知らないだけだった。神の存在を理論的に証明できないと認めたのはそれだけでもすごいことだけど、そういう歴史的な事実をその後伝承してないことが不思議だ。宗教では人間ができない奇跡を例に出して、だから神が存在すると言い張るが、そういうことを彼らは否定しているんだ。

  「神は死んだ」(ニーチェ)に代表される考え、つまり絶対的な価値基準から神は相対化されてしまった。つまり神という信仰が真偽や正邪や美醜と同じような価値判断の一つに仲間入りし、いわば個人の趣味の領域に堕してしまった。

  「人を殺してはいけない」という納得できる理由を一般の人はうまく説明できないと思うけど、これは法律を学ぶ者が最初に問われる命題だ。それは法的には「そう法律で決めたから」というしかない。

 実はなぜ「人を殺してはいけないか?」という問い自体中世にはなかった。なぜならそれは神が命令したから、神の存在自体を疑わない人々が神の命じる言葉を疑うわけがない。「汝、殺すなかれ!」それは絶対的な命題で、人が殺されるのは事故かまたは悪魔の仕業しかなかったのだ。

  近代ヨーロッパの哲学は存在論、認識論もすべて神学から切り離され、近代科学の発展とともに神が入り込む余地を排除した。しかし、研究者の多くは最先端の科学知識を持っていてもキリスト教などの神を信仰している人が多い。それを矛盾と感じないのはそれだけ小さい頃から生活の中に宗教的行事や習慣が定着しているからかも知れない。

 僕は信仰が心を癒すとは考えないし、なにか生きていくうえで拠り所になるとも感じない。でも否定はしない。






  • 久遠の恵

    久遠の恵

    2016/12/31 18:54:31

    リュウさん
    もうすぐ新しい年に変わりますね。
    ブログを読ませて頂くのが遅くなってごめんなさい。

    宗教を語ることはとても難しいです。
    私は生きる為の心を映すものが欲しくて宗教を求めました。

    難しいことは考えず自分の生き方をおこない示すそれだけを守ってきましたよ。
    幸い夫婦同じものを求めて生きてきたつもりですが
    気が付けば50年以上同じ屋根の下でいますから
    時として方向が違うことも多くあります。
    まぁもう少しこのままでいいかと毎日過ごしています。

    リュウサン優しい言葉を届けて頂きましてありがとうございます。
    皆さんとの交流のお蔭で弱ってくるお体も楽しく過ごせた1年です。

    来る年もよろしく。お体お大切に。

    外ブログブログ 明日に繋ぐ今日 ぜひ検索されてみてください。
    ニコットタウンのアイテムも時々登場します。
    12月25日2500回目を投稿しています。


  • リュウ

    リュウ

    2016/11/25 23:54:02

    ジプちゃん!
    以前TVで最先端の理論物理学者が敬虔なカトリック信者という番組を見て
    「なんて馬鹿な科学者なんだろう!」って思ったけど、キリスト教徒が聖書の
    内容を妄信したり、進化論を否定しているわけではないことを知った。
    彼らはいろいろな現実を理解した上で、神を信仰するという意志決定をしたのだ
    ということも知った。つまり客観的事実として神を受け入れたのではなく、主観的に
    受け入れたということなんだ。
    信じる者は救われる・・・そういうことなのかもしれない。
    僕にはできないけど・・・(^_^;)

  • ジプ

    ジプ

    2016/11/25 00:36:47

    欧米の人たちの宗教観と、日本人のそれとは違う気がする。
    近代ヨーロッパで、神を絶対的な存在から相対化されてしまっても、
    そしてその説を唱えている人々も、
    今もキリスト教を信仰して矛盾を感じていない。
    子供の頃に植え付けられた習慣は絶対的に心に根付いているからだろう。
    日本人の宗教観は、八百万の神を信仰する大らかなものだと思う。
    神に縛られずにいられる。
    都合の良い時だけ信仰する・・・ちょっとずるいかも( ^ω^ )♪