脳活日誌774号
庭の八重桜が咲いた。
今日は曇り空なのだが、朝起きて庭の八重桜の枝のあちこちに花が開いていた。朝食を済ませて、詳しく観察すると、朝起きて見ていた開花よりも花の数が増えているのである。時間の進行につれて開花が進んで行くことが確認できた。花は生きものなのである。八重桜には誠に申し訳ないのであるが、開花しましたと一枝を切って仏壇にお供えした。枝を切る際、南無大師遍照金剛と唱えた。
認知症が出始めた頃、母親に開花のことを告げると、庭をコの字型に巡る廊下まで出て来て、「ほんに。きれいやな。」と見上げる姿が思い出された。感動すると母親は「ほんに。」とよく言ったものである。辞書によると、「ほんに。」は詠嘆の気持ちをこめていう語となっている。「主に女性が用いる古風な言い方。ほんとうに。まことに。」(スーパー大辞林)と解説されている。今の若い人で、こんな言葉を言う人はいないだろうから、21世紀の死語かもしれない。
このように言葉は時代と共に失われていくが、人の感情も同時に消え去っていくものである。言葉は風俗の変遷みたいなものかもしれない。若者の言葉には余韻がないように感じられる。漫画時代、映像時代だから、言葉と同時に絵や映像を同時に見てしまうから、言葉の余韻を感じ取る余裕を持たないのではないだろうか。くどい様だが、余韻とは目に見えない映像を推理することなのである。余韻を楽しむということは推察絵を心の中で思い浮かべるということなのである。これは言葉と想像の問題でもあるのだが、映像が映像を刺激して増幅することもあろうが、言葉の余韻はそれ以上の想像をもたらすものなのである。愛の言葉の余韻を楽しめ!
みき
2017/04/16 09:49:43
ごま塩ニシンさん、おはようございます。
そうですね、今の時代そのものが、慌ただしくて余韻を楽しむ余裕っていうんでしょうか、そういうものがなくなっているように思います。
お仕事で効率化は大切でしょうけれど、プライベートでは「無駄の大切さ」があるように思うんですよね。
日本語は、省略が多い言語です。
主語を省略するケースがあるのは日本語くらいじゃないかしら?
だからこそ、ニュアンス、余韻といったものが多く含まれるんですよね。
アメショ
2017/04/15 16:24:42
さくらの葉が、舞うわナー。
認知はないが、場当たり、そん時だけ。会話、対応で、カセットテープだわさ。
要は、「なんで?」とか、次の思考が、めんどう らしい。
おかしい奴は、即、「馬鹿」判断。
だから、私は、奴に、とっちゃ。
あたまがおかしいらしい。
ほっとこ。