その2 古墳への疑問 『銅鐸民族の悲劇』を読んで
『銅鐸民族の悲劇 戦慄の古墳時代を読む』を3日間で読んだ
それほどおもしろかったのは久しぶりだ
一番最初にわたしが出会った古墳は
神奈川県の小田急線海老名駅前にあった小さな古墳だった
50年以上前 海老名駅前は駅舎だけが視える一面の稲田だった
見渡す限り緑一色の田の中に小さな緑の丘だけがこんもりとあった
その穏やかな風景に、古墳のある風景ってステキ!と思った
古墳があるところにに住みたいものだという気持ちは大人になっても残った
偶然だが、今、大きな意味で古墳群のなかに住んでいる
埼玉県には数千基の古墳があると言われている
さきたま古墳群の周囲にはいくつもの古墳群がある
何度も古墳を訪ねるうちに
古墳に対する漠然とした疑問がわいた
わからないことはロマンをかきたてる
反動で、素朴な疑問はしつこくこびりついていく
『銅鐸民族の悲劇』に書かれていた答えはロマンとは真逆の展開だった
何はともあれ
自分の疑問を改めて確かめにさきたま古墳公園へ行った
さきたま古墳公園は
埼玉県の県名『埼玉』の由来になっている
「さきたま」地名のある場所だ
万葉集にも詠まれた「みさき」があり、
水路輸送が行われていたことが推測できる
利根川と荒川にはさまれた大地には
5000年前の蓮の種が自然開花した「古代蓮の公園」もあり
夏には古代に咲いていた蓮の花が咲き誇る
また、延喜式式内帳に載っている「前玉神社」は
「さきたま」と読ませる
さきたま古墳群から出土した埴輪は、
今でもモダンと思える市松模様のズボンをはき
イヤリングやベルトをつけている
お洒落な装いをこらした古代人たちが往来していただろう
交易のさかんな古代都市があったといえるロマンが広がる
そんな時代に作られていた古墳は誰が作っていたのか
いったいどうやって巨岩を運んだのか
どうやって大量の土を盛り上げたのか
働く人たちの労働力に驚愕するほど圧倒される
第一の疑問 謎の古墳群
古墳公園の地中には、丘状態になっている古墳と古墳の間に
無数の小さな古墳がびっしりと並んでいる
そのひとつ、小さな古墳の発掘調査を偶然に見学することができたのだが
大人の身長ぐらいしかない、丸い小さな古墳だった
調べたあと、埋め戻しをする
公園内の地中にはわかっているだけで数十基あるといわれている
どうしてこんなにたくさんの「古墳」が作られたのか?
少し歩けば古墳に当たると思うほどの古墳群だ
その中でわずかな古墳を除いて
巨大な建造物であるのに基礎土台がない
なぜないのか?
そう思ったのは、公園のすぐそばにある白山媛古墳を見たからだ
白山媛古墳の頂には緑片岩の巨大な扉の頭が露出している
長い年月の間に頂上の土がなくなったためだ
こんな小さな古墳にこんなに巨大な扉を
遠くの山から切り出して運んできたのに
(緑片岩の産地である御荷鉾山付近か、
近くても都幾川付近ではないかと思われる
どっちにしても巨岩を運ぶには大変な労力が必要だ)
なぜ、基礎となる土台が石ではないのか?
これではただ土を盛り上げただけじゃないか?
古代には現代では到達していない高度な建築技術があった
そんな時代に土を盛り上げただけ?
土を盛り上げる作業を行うにしたって
作業の安全を考えたらありえない話だ
子どものころ、ボタ山が崩れる人災事故があったニュースを記憶している
石炭鉱山で掘り出した土を積み重ねていったボタ山と同じだ
古墳築造の間に、そんな事故が起きないほど
優れた技術を駆使していたとは思える跡はない
古墳公園には、大きな9つの古墳がある
それはまさに「丘」である
土台となるものがなく
土の盛り上がりがあるのだ
「円形」や「前方後円墳」の形になっているものもあれば
台形になっているものもあるが
土台となる礎石もなければ杭を立てた跡も出土していない
例外となるうちのひとつが先に紹介した前玉神社だ
社ーやしろーが「浅間山古墳」の上に建っている
10世紀に社が建てられたときのものなのか
「古墳」の高さ半分までが石組で固められている
第二の疑問 この古墳群は墓か?
古墳が墳墓として建てられたなら
なぜ、多くの古墳から遺体が見つからないのか
さきたま古墳群のなかで遺体が安置されているのは将軍山古墳だけだ
将軍山古墳は墳墓だと言える
将軍山古墳の内壁は
千葉県君津あたりの海中にある巨岩を運んで作られている
この岩を海中から掘り出すのは現在でも難事業だろう
そんな難事業を成し遂げた古墳なのに
遺体は床に寝かされているだけだ
置き方がやけにおざなりだ
第三の疑問 墓でないなら何なのだ
将軍山古墳の隣にある、前方後円墳の稲荷山古墳からは鉄剣が出土した
円墳の頂に小石を敷き詰めた簡単な穴から出土した
遺体もあっただろうという解説があるが
遺体を置くにしては動物に食い荒らされちゃうだろう?という簡素な穴だ
出土した当時、錆だらけだった鉄剣は地域の有志の篤い志によって
金文字が書かれていることが発見され
国の重要文化財になった
古事記(712年)には古代神話が集められている
古事記以前は文字がなくヒエダノアレの口承伝記をまとめたと言われている
その古事記以前、471年に鉄剣に漢字が彫り込まれていた
今、さきたま古墳公園の博物館にあり
(!珍しいことだよ国に持っていかれなかったのは)
さらに再現された鉄剣を見ることができる
鉄剣と金文字が再現されたのは
現代の刀剣の専門家グループによって
現在では失われていた高度な技術への挑戦が行われた成果だそうだ
今では見ることのない「漢字」で7代にわたる祖から子の名前がある
7代ってことは一代20年にしたって140年になる
一世紀以上になるかもしれない代々のルーツをしたためた劔は宝物だったろう
飾られていたかどうかはともかくとして
人に見せるために作られたものと言える
鉄剣鋳造の技術を考えれば、
金文字を刻印したにふさわしい堅固な箱が用意できたのではないか
なんだか、釈然としない空気を感じる
大がかりな変事が起き
地中に隠さなければならない事情ができたのではないか?
ミステリーの始まりだ
政変が起き
それまで大事にしてきたものを隠すのはいくらでも例がある
明治が開け、神仏習合が進んでそれまでの様相が一気に変わって行く
記憶や伝達が途絶えた後に隠された秘仏が発見されたニュースがある
そういう歴史はいくつもある
太平洋戦争中、日本人形と親善交換されたアメリカ人形が燃やされるなか
秘密裏に隠され保存されていたこともある
人間の心理って、そうそう変わるもんじゃない
古墳が盛んに作られた5~6世紀以前から
金と鉄の技術と文字という伝達情報を享有する力を持つ人たちが
「さきたま」にいた
山が盛り上げられた後に、政変が起き、鉄剣は山の上に隠された
そして古代稲荷社が「めくらまし」として建てられた
稲荷社が古代からあることは京都伏見社の由来にある
ここで、「古墳」という現代の呪縛を解くために
「稲荷山」という名称を使うことにしよう
「古墳」と呼んでいる「小山」が
生産性のない、土を盛り上げるためだけの
「人造山」として認識されていたとしたら
鉄剣を隠すには「山」は都合がよかったのではないか
そこに稲荷社を建てれば「稲荷山」になる
「稲荷山」の裾野周辺には稲田が作られる
労働力は「土」を「山」に盛り上げた人たちがいる
目くらましには一か月もかからないだろう
月日がたてば、自然の丘と見せかけることのできる緑に覆われるだろう
稲荷山古墳はこの鉄剣を埋蔵するために作られたのか?という疑問が残る
文字数制限のため ひとまず、了
たまねぎ
2017/09/07 20:11:11
遠い古代・・・でもその古代から確実に遺伝子を受け継いでいる私たち。
当時の様子を思い浮かべるとドキドキしますね~
あらゆる物証から予想を立てて、もうこれ以上仮説が変わらないとなった段階で、
最後にタイムトラベルして答えを見に行きたい気分です^^