今年は感想を書く訓練なのだ

吉春

自分の思った事、感じたままを人に伝える事って実は難しい。「なにそんなんで感動するわけ?」って事が往々にして起こりうるからだ。

三輪の山里(その4)

自作小説

長野信濃守の娘婿である、羽根尾城羽根尾幸全(ゆきまさ)を伴なった使者は、箕輪城の本曲輪館に通されていた。
羽根尾城は海野幸光が築城し、子の一人を入れてこれを守らせた。
幸光は小県に拠点を置き、やがてそれらは海野棟綱、その子幸綱(真田幸隆)に引き継がれるはずであった。
故に海野棟綱と根尾幸全は、親戚にあたりこれを頼りて箕輪に参り、さらに関東管領へ援軍を求めたのである。

「つきましては、信濃守様のお力にて、管領様へのお取次ぎお願い申し上げます」

「仔細は承知つかまつった、まずは、わが手の者を遣わす」

この当時関東管領上杉憲政は、まだ齢19でありお家の行く末を決めるような大事の采配する能力には欠けていた。
もっとも、憲政が管領の座に就いたのは5つの時であった。
当時管領にあった上杉憲寛と長野家等の主流派に対し、敵対する藤田・小幡・安中らの家臣団に担がれて謀反の末に、憲政は今に至ったのである。
この争いに敗れたとはいえ、白井・惣社の両長尾家を取り込んでいた長野氏は、依然として大きな力を持っていた。
このような経緯を抱えた上杉家は、もはや一つではなく小県への援軍も容易に送ることは出来ない。

本曲輪の北、御前曲輪に使いが出され男は呼び出された。

「これ左京、手勢を数騎ばかり引き連れ、小県へ向かってくれ」

「で、いかような、仕儀でありましょうや」

「村上・諏訪・武田が手を組み、小県を狙っておるとのこと」

「まずは羽根尾同道の使者と、現地へ参り状況を知らせよ」

「は!かしこまりました」

「わしも平井に上がり、評定の上出立いたす」

この男左京之介は、家臣・同心衆の次男・庶子など、言わば人質として箕輪に上がり城主の傍に仕える一人である。
しかし今この男は、主君信濃守業政の覚えめでたく、若君のそば近く使えるようになったのだ。
かねてより共にあった小姓仲間を引き連れ男は、箕輪城を後にした。

信州街道を西に向け、鳥居峠を越えて小県に入る。
5月男たちは、尾野山城へ入った。
13日武田・諏訪連合軍との防戦むなしく、城お落ち残る力を結集して神川に対陣する。
25日男は小介を使いに出し早急に援軍をと催促するが、善戦虚しく総崩れとなって敗走した。
男は、海野父子共々箕輪へ逃げ帰った。

この期に及んで、援軍を出せなかったのには訳がある。
あろうことか関東管領譜代の家臣、金山城主横瀬泰繁に謀反の疑いこれあり。
これの鎮圧のため、深谷上杉憲賢・長野賢忠・那波宗俊・成田親泰・桐生助綱らが金山へ向けて出陣しているのである。
しかしながら、こうなってしまっては是非もなく、長野業政は西上野の諸将(河西衆)を引き連れて出陣した。
その中に、海野棟綱とその子幸綱(真田幸隆)父子があったのは言うまでもない。

佐久郡へ入ると、なぜか武田勢はこれを避けるかのように甲州へ引き上げていった。
海野平に向けて陣を張る、信濃守のところへ急変を知らせる早馬が駆け込んだ。

「ご注進、ごちゅうし~ん」

「いかがした」

「金山にて、我が方総崩れとの知らせが」

「なにっ」

書状には、北条方の工作により見方が翻り、後方を突かれ敗退したとのこと。
業政による武田方への工作は、功を奏したが、残るは諏訪と村上。
業政は危急に諏訪と村上に対し使者を立てた。
しかし返答をよこしたのは、諏訪のみで村上は応じなかった。

「かくなるうえは、是非にも及ぶまい」

「諏訪へは承諾と伝えよ、村上へは停戦の意思を伝えよ」

「信濃守殿、我らをお見捨て人るのですか」

「小県へは参らぬ、貴公らにはすまぬが、聞いての通りお家の一大事」

「埋め合わせは必ず致す、許されよ」

箕輪城に戻り、上杉家の体制を復すに奔走する業政。
そこへ、甲斐からの不穏な知らせが届いた。

「なんと、武田陸奥守殿が追放された」

そんな話とは、なんら関わりなくすごす一人の男。
力なく幸綱(幸隆)は、長雨の箕輪城にあった。

たちばなを 憂えてなくか 不如帰 ぽつりぽつりと 曲輪にぬれる

鳥の鳴き声に思わず、口から漏らしたこの歌は、信州から来た男の姿を写し取っていた。
この神妙な男に気を取られ、少年が声をかける。

「あの鳥に、聞き覚えがあるのですか?」

「おお、これは若様、よう気が付かれましたな」

男は不如帰の由来である、悲しい物語を聞かせた。

「だからのう、あのように力を振り絞って泣くのだ」

「お侍様もなのですか?」

「見ておられたのですね、そうだとも、何と賢い子じゃ」

文吾丸は、この時8つになるがこの男のことは耳でなく、目で感じてそう思ったのだ。
喜びも悲しみも、言葉でなく目で見て体で感じ、心で聞く能力が芽生えていた。
これは思春期を過ぎ、大人になるにつれ少しづつ、失くなってゆく性質のものでもあった。

翌天文11年幸綱(以後幸隆とする)の父、海野棟綱は失意のうちに没した。
箕輪城主長野信濃守は、嫡子吉業と養子の文吾丸の他に男子はなかった。
しかし、それを補って余るほど娘に恵まれていた。
こえを武器に信濃守は、河西地域を中心に有力諸将の下へ嫁がせて、縁を結び影響力を持つようになった。
ここにその一人である、国峯城主小幡尾張守憲重がやって来た。
幸隆の身上は、すでに長野家中では広く知られており、信州の田舎侍とそしる者も少なくなかった。
憲重が声をかける

「幸隆殿、貴公ほどの家格のものは、本領に復するが道理」

こうして妻の実家へ挨拶に来てはいるが、内心のそれは実を異にする男が、声をかけてきた。
これは戦国の世としては、なんら不思議ではなく、文吾丸の時のように何も含みのない声かけは珍しい。

「ああ、これは尾張守殿ではござらぬか」

話は弾み意気投合し、そして業政に対する不満のようなものも、分かち合うようになった。
これが後に、武田24将に数えられる、二人の出会いである。

つづく