封印された遺書(1)
去年の今頃だったと君岡は振り返った。あの後、北野の奥さんはどのようにしたのだろうか。生ごみの袋を右手に提げて十メートルほど歩くと駐車場のブロック塀の前にゴミ置き場があった。空は鉛色で、どんより濁っていた。空気は冷え、風もなく静かな朝であった。黒のオーバーを着た若い女が足早に駅に向かって横を通り過ぎて行く。目標のある人間は急いで人生を渡っていくのだろうが、君岡に急ぎの要件は何もなかった。ただ、過去の空域から舞い込んできた喪中ハガキから、今まで知らなかった友人の感情が湧き出てきたことに驚かされた。亡くなった北野の奥さんに一度会ってみたいという興味が湧いてきたことも事実であったが、余計なことはしない方がいいかもしれない。直接、俺とは何の関係もないことだ。玄関のドアを閉めながら、君岡は心の中を落ち着かせようとした。ただ、喪中ハガキの差出人が『よろず生活館』となっていて、藤木文子と小さな文字で印刷されていた。これは取引のあった関係先に発送されたものと君岡は理解した。
北野とは、学生運動の華々しかった六十年代の仲間であったが、長らく彼の消息は途絶えていた。あれは夏の盛りであった。あまりの暑さに君岡は地下街へ逃げ込んだ。阪神百貨店の地下食料品売り場の前、御堂筋線の改札を出たところで二十五年ぶりに北野と出合ったのだ。
「おい北野。」と君岡は声を掛けたが、相手の頭髪は半分ほどしかなかった。呼び掛けたものの人違いかも知れないという不安があった。
「久しぶりな。君岡だろう。」と北野は言ったが、数秒間お互いに見合ったままだった。喫茶店で近況を話し合うと、北野は現在、失業中で資格試験の勉強中であると言った。君岡は旅行会社を始めたばかりであった。
「それにしても、頭が薄くなったじゃないか。」
「君の方は、白髪が多いじゃん。」
北野の喋り方は学生の頃と変わりはなかった。北野はガラスメーカーに就職したけれども、企業合併があって、労働組合で反対闘争をしたが、企業の業績が振るわず、仕方なく希望退職に応じて1年前から浪人生活をしていると言った。退職金のある内に資格をとって、独立したいと北野は将来の展望を語った。この邂逅があってから北野との交流が再開することになった。