すれ違った影の交錯。
渓流沿いの窓辺から。
大野明美は、北野政頼のことを思い出すと、眼下の渓流に過去の感情を投げ捨てた。古屋弁護士から何度も北野が残した遺書を受け取ってもらいたいという要請を受けていたが、北野の遺志を受け継ぐ気になれなかった。受け取れない理由は彼女自身の問題であった。北野との結婚生活で生まれた浩美という娘がいるが、この子の父親が北野ではないことであった。浮気した時に妊娠した子供であったが、夫には内緒にして出産した。このことについて北野は薄々感づいていたはずなのに何も問い質すことがなかった。何故だか、明美自身理解しかねた。正直に全てを打ち明ければよかったのに浩美のことについて両者が沈黙したまま長い結婚生活が続いてきた。だから、何か、ことある度に性格が合わないから別れましょうと明美は北野に言って、衝突してきた。
北野はガラスメーカーに勤めて組合活動に熱心だったから、毎日、帰宅するのも遅く、家庭内の出来事に耳を傾ける余裕がなかったのかもしれない。
「明美にまかせる。君の好きなようにやってくれたらいい。」
こうした反応しか北野は示さなかった。
幼稚園や小学校の運動会にも北野は参観しなかった。組合以外に地区の政治活動に顔を出し、土日関係なしに出掛けて行った。当時はこうした時代だったのかもしれないが、北野は浩美のことについて自分の子供ではないと軽く見ているのかもしれないと明美は理解してきた。ただ、どうして夫が妻の明美を責めてこないのかが不思議でもあった。
ある時、ひっこり北野の兄夫婦が自宅に訪ねてきたことがあった。有馬温泉に行く途中なので寄ったと言うことであった。北野には男の三兄弟がいたが、一番上の長男は若い時から結核を患って療養生活を送っていたが、三十歳になった時に病死していた。次男の北野圭太は結婚していたが、長らく子供ができなかった。兄夫婦というのは、この北野圭太の夫婦のことで実家の土地や山を管理していたが、後継ぎがいないので政頼に二人目の子供が生れたら、その子供は北野圭太家の養子に迎え入れたいと申し入れてきたのであった。厚かましい不躾な兄の提案に明美は面食らった。兄夫婦は、どこか無神経なところがあって、相手の気持ちを考えていないというのか、こんな提案をすれば、弟夫婦がどんな気持ちになるのか、類推できない無頓着さがあった。この時、二人目が誕生するかどうか、わかりませんからと政頼は素っ頓狂な応対ぶりであった。本人は兄を誑かしたつもりであった。