脳活日誌1050号
神の位置を探して。
神様がいるのかどうか。これは信心する人、しない人、どちらの考えの人であっても、一応は考えている問題である。死んでしまった人は、どこへ行ったのか。何時も考えていることである。きっと、どこかから、見ていてくれる。見守っていてくれると、ほとんどの人は思っているだろう。つまり、死者は神となって、どこかから現実を見ている。今の自分の姿を見詰ている。まあ、このように思いたい。仏壇や神棚に向かうたびに、本当はどこにいるのだろうか?と常に感じている。
火葬場で遺体が焼却されて、骨拾いをする。骨壺に遺体の焼かれた骨を入れる。お寺で遺骨を粉骨にする。こうなると骨という成分を持った物質である。僧侶は個人の魂が宿っているというかもしれない。有機物が無機物に転換していく。人間の肉体を形成している有機物体から、物体を形成していた元素に還元された。生命や宇宙は元素から形あるものとして造られてきたわけだから、元の姿に戻って当然である。元素=原子は物理的に解明が進化している。重力の持たない素粒子は地球や太陽を突き抜けて、宇宙界を飛び回っている。こうなると人の魂の源泉である素粒子は形ある人間の周りで浮遊していることになる。
生命の周りには、生命の源泉である粒子が無数に飛び交っていて、この粒子に取り囲まれて、人間の生命があると言ってもいいかもしれない。ところが、無重力粒子は飛び交っているだけで、姿を現さない。人は永遠に見たり、知覚することはできないのである。だが、見える、感じる瞬間がある。それは粒子界と人間の間に神というものが仲介している可能性がある。神は粒子界と現実の人間界を結び付ける真空界に生息しているものかもしれない。神は両者を結び付ける偶然神なのかもしれない。こう考えることによって、無重力の粒子界と人間界とを結びつけている偶然界の神の存在というものが浮かび上がってきたのである。自由に宇宙界を飛び回っている粒子が宇宙をも飲み込む引力(ブラックホール)によって吸い寄せられて、やがて自由に動けなくなって、巨大な圧力によって原子という物体に閉じ込められて、重力を与えられ、無数の元素が宇宙界に誕生して、運動を始める。こうした諸現象を統括していくのが、偉大なる神のなせる業かもしれない。合掌。拝。
アメショ
2018/02/18 09:06:29
何?物理の授業?。