ごま塩ニシン

脳活日誌1051号

日記

   相対か、絶対か。
 すべてに上のテーゼは適用されている。宇宙を含めて人間生活を取りまく条件は相対か、絶対かで動いている。記録も何時かは更新される。つまり、記録は相対的なものだからである。逆に言えば、記録は抜かれるためにある一時休憩所かもしれない。記録保持者はチャンピオンとして、一時的に君臨できる。これは大きな安らぎである。この感情の空域を求めて、励んでいるのかもしれない。頂点に立てた人は頂点で呼吸しているのであろう。体験者しか分からない。敗者は絶対に勝者の気持ちになれない。悔しさしか残らない。だが、勝者も相対的なものでしかない。目標を極めたならば、後は追われる立場になる。競争というのは、こうしたものなのかもしれない。では、競争をしなければ、どうなるのだろうか。停滞しかないのか。これは判定が難しい。なぜなら、この宇宙は絶対的に動きの中にあるからである。あの星の輝きこそが全てを証明している。億万分の1秒の煌めきは億万長年の時間の経過を現わしているからである。時間というものは、総体の変化そのものであるからだ。

 相対評価で社会は動いている。商品市場がそうである。売れる商品、売れないで捨てられる品物。商品というのは貨幣と交換されて、人間の欲望に資するものに対して付けられる名称である。ところが売れずに捨てられる商品は交換されないで、つまり人の欲望を満たすには不十分であったから、商品としての資質を喪失して、単なる物として捨てられていくのである。この商品と物との違いが社会経済のすべての原理として厳然と法則を貫いている。マスコミはこのことを詳しく伝えない。それはマスコミといえども、一つの商品であり、物でしかないからである。あの有名なアナウンサーや解説者ですら、この法則から逃れることはできない。その証拠に引退したり、現役を惜しまれながら去っていっても、もう次の人がスタンバイしているではないか。流れは途切れない。すべては相対の流れの中にある。だが、流れ方によって、相対的評価が著しく変わってくる。有利不利が出てくる。何故こうなるのか。それは相対的に評価しながらも、人は何か普遍的な絶対性を持てめているからである。記憶に残る感動を求めているからである。人の心を揺らす感動こそ絶対的な価値である。ここに総体の世界では得られない、絶対感動があると思う。