脳活日誌1054号
基準というもの。
何事も基準になるものがある。公的な基準、私的な基準、社会的な常識の基準など基準は無数に設定されている。1日8時間労働。これも基準の一つであるが、これは5月1日のメーデーの始まりとされる総資本と総労働の闘争の結果として、アメリカで取り決められたものを始祖としている。こんなことは忘れ去られているが、1日の労働時間が8時間と定められるようになるには長い歴史が過去にあったのである。ところが、こんな過去の歴史を若者は学ぼうとしない。当然、政府は財界の意向もあるので世界的な労働時間の制約を、出来るならば、なし崩しにしたい。本来ならば、労働時間は8時間以下になっていかなければならないのに、いかに延長させるかに腐心しているのが現状である。19世紀の労働生産性と21世紀の労働生産性を比較すれば、驚愕するしかない。この話はここまでである。
平均値とか適当値という時代になってきたのかもしれない。極めてあいまいな時代というか、分かったようで分からない風潮が蔓延してきている。これは政治家にこうした体質が行き渡っているからかもしれない。はっきりしているようで、よく分からないというのが現状である。日本の言葉に起因しているのかもしれない。精神は言葉に寄って規制されているから、曖昧な解釈ができる余地を日本語が潜在させているのかもしれない。こうした民族であるとは思いたくない。戦国時代の日本人は、もっとし烈な精神を持っていたのではないかと思ったりする。曖昧さと、熾烈(しれつ)さが入り混じった感性の持ち主が日本人ではないかと思う。常に相反する精神を内在しているのが日本人ではないか。最近、こんなことを思うようになってきた。
言ってみれば、中間層が日本を担っているわけだから、今後、彼らがどう判断して動いていくかである。現状の日本を、どう見ているか。今年の4月になれば、貿易問題でトランプ政権は保護貿易へと舵をきる。これが世界経済に、どのような比重で波紋を広げるかである。世界の貿易の流れに、転換点となるのか。そして、この流れが世界経済に、どのような深刻な影響をもたらすのか。歴史の分岐点になるかもしれない。