夜霧の巷(5)
「この人物の名前はご存知ですか。」
刑事の質問の場合、一方が話している時には、もう一人の男は必ず相手の表情を観察している。微妙な変化を読み取ろうとしている。
「信太盛太郎さんです。古くからのお客さんですので。昨日は開店と同時に見えられて、夕方の6時過ぎでしたわ。この方は、来られるときは店の開店する頃を見計らって、来てくださるのです。そして、夕食を食べはるのですよ。ちょっと変わったお客さんですから、よく覚えています。」
美佐は意識して、細かく喋った。
「帰られる時に、何か、持っていませんでしたか。」
「手提げ鞄を持って、帰られました。こげ茶の革製だったと思います。私がドアを開ける前に、手渡しましたから。大きさはポッシェットの倍くらいでしょうか。」
この美佐の説明に二人の刑事は顔を見合わせた。
「遺留品があるということか。手提げバッグね。」
二人の刑事の表情は硬くなった。
脳裏に「バッグの探索をしなければならないのか。」という難題が浮かんできたからだろう。港の沖合で溺死体となって発見された信太盛太郎は、クラブ霧笛で夕方の6時頃から店に入って、夜の11時30分頃に地下鉄の最終便に乗るために店を出た。持ち物として、こげ茶の革製バッグを持っていた。だが、バッグは見つかっていない。これからの捜索課題になるが、雨の中、酔っぱらって運河に転落して、海へ流れて行ったのであれば、単なる事故でしかない。もし、そうだとするならば、事件性はない。遺留物の探索にしても、殺人事件でない限り、探し出さなければならない必須条件ではない。
「あの。信太さんの名刺でしたら店にあります。必要なら持ってきましょうか。」
若い刑事は中年の上司に目配りをした。
「名刺はいいです。身元は分かっていますので。」
聞き込みは、ここで終わった。二人の刑事は軽く会釈をして帰って行った。
美佐は悪い予感が現実のものになったことでショックだった。店のドアを開けるとソファーに崩れるように体を投げ出した。脳裏に背中を見せて、夜霧の中へ歩んで行く信太盛太郎の姿が蘇ってきた。水を浴びせられたような震えが美佐の全身を襲った。余りにも悲しい、哀れな結末を見た思いであった。