ごま塩ニシン

夜霧の巷(8)

自作小説

 アルバイトの女性がレジイーで大きな声を出したものだから、店長の由梨花はカウンターから顔を上げた。
「一人で座っていた男の人が、急に駆け出していったから。」
「ああ。慎一郎さんね。ほっといたら、いいよ。」
「店長のお知合いですか。」
 興味ありそうに聞き返した。
「まあね。」
 こう返事をすると、由梨花は堪え切れずに表情を崩して笑った。
「どうされたのですか。」
 アルバイトの女性は、ますます興味を見せた。
「私ね。あの人の許嫁なのよ。」
「嘘でしょう。全然、想像がつきません。だって、あの人が店に入ってこられた時にも、目立った対応を、されなかったじゃないですか。」
「店に入った時は、お互いに無視するという約束になっているのよ。でもね。テレパシーというのが走っているのよ。あいつの顔を見ると、何を考えているのか、だいたいわかるのよ。不思議ね。」
「ええ、そうなのですか。店長、それ、おノロケですか。でも、許嫁って、親同士が勝手に決めるって、ことでしょう。古いのと違います。」
「全然、ぜんぜん古くないよ。決めたのは私の方だから。相手は嫌がっているんだけれども、私から逃げられないと思うよ。」
「まあ、ずいぶんと自信がありますね。」
「幼稚園の頃からの付き合いだから、他人顔するのもテクニックなのよ。」
 由梨花の言葉を聞き流し、店員は新しく入って来た客に対応していた。