夜霧の巷(17)
契約社員の上林良平が休暇を取れたのは8日後であった。交替勤務者の家に不幸ごとがあって、休暇日がずれた。彼は独身でシェアハウスに住んでいた。男が三人、女が三人の構成になっていた。家に風呂はなかったが、男女別々のシャワールームとトイレがあった。電子レンジと冷凍冷蔵庫があるキッチンとリビングは共有で居住者の合意のもとにゴミ出しや掃除が割り当てられていた。無職というか、求職中のフリーターの男が一人、ソフト会社に勤務する男性社員が一人、女は幼稚園に勤めている職員、アパレル関係のデザインを担当している三十代の女性、五十代の人で給食センターの管理栄養士が一人であった。トラックの運転手という現業職は上林だけであった。職場がバラバラということもあって、共通の話題がなかった。無口な上林はリビングで話し込むこともなかったが、彼が作るスパイスの効いたカレーがシェアハウス全体の空気を黄色く染め上げる時には、皆から歓迎された。「旨い。」と称賛されるのが上林の唯一の自慢であった。
その日は冷凍しておいたカレーを解凍し、うどんにかけて食べた。それから二階の自分の部屋に入った。スペースは4畳半で折り畳み式のベッドと本棚があるだけのシンプルな空間であった。彼は拾った手提げバッグの始末をどうするか、軋むベッドで上向きになって考え続けていた。やっぱり、警察に届けるべきではないかという一抹の良心が心の隅でくすぶった。今からでも遅くはない。こう考えてみたが、現金の入った封筒を脇に置き、メモ帳を開いた。不思議なことに漢字ばかりが羅列されていた。参考のために表記内容の断片を以下に記述しておこう。
當非如 及歳必 何斗歓隋 得分弟骨 時人得ン
勉非如 不必 骨散弟 散上不 及人得ン
こうした調子で漢字が20数ページに羅列されてあった。
上林は一瞥しただけで興味をなくした。一見して意味が通じない。これだけの理由でしかなかったが、まとまった漢字の塊を見て、小学校の習字の練習を思い出した。書道教室へ2年ほど通っていたことも思い浮かんだ。早世した母親の顔が上林の脳裏をかすめた。自分のしている行為が間違っている。こうした心理状況の中で自分にもう一度、問いかけるのであった。