ごま塩ニシン

夜霧の巷(35)

自作小説

 叔母の陽子は夫のビジネス手帳なんかに微塵の興味を示さなかった。菅原はわざわざ手帳を開いて、最後のページを伯母に見せた。
「私ね。正信の仕事のことには関心がないのよ。スナックやバー、クラブなんか一度も行ったことないわ。アルコール類は飲めないでしょう。それに正信のしている仕事だから、いつも距離をおいていたから。正信も仕事と家庭をしっかりと区分けしていたから。クラブのママがどうだこうだ、気にしていたら、きりないでしょう。信太盛太郎という人や北川美佐という人にも、会ったこともないわ。」
 陽子の口ぶりは他人事のようであった。確かにお茶と花の教室をもって、自分の世界に生きて来た人だから、夫の正信が仕事の上で、どのような交友関係を持ているのか、まったく関心がないようであった。ある意味、菅原はがっかりしてしまった。
 その日の午後、菅原はコーヒーショップ『カモメ』に寄ってから、陽が沈むのを待って、運河沿いに信太盛太郎が転落した橋まで歩いた。事件直後から何度も来ているが、北川美佐の経営しているクラブ霧笛を訪ねてみようと思った。彼は事件当日、信太盛太郎が雨の中、歩き下ってきたとは逆に夕陽を背に受けて、緩やかな新栄街区の坂道を登って行った。緑色のタイル張りで仕上がった第六レジャービルは街区の中央に建っていた。菅原は時計を見た。午後4時半であった。ちょっと早いかなと思った。しかし、一度も新栄街区で遊んだこともなかったことが残念というか、自分の経験の浅さに我ながら苦笑せざるを得なかった。こんなことでルポライターを志望するとは厚かましすぎないか。こう考えると、可笑しくなり、一人笑えて来るのであった。
 ビルの前には鮮魚店の配送トラックが駐車していた。こんな時は餅屋は餅屋に聞くのが一番である。こう思って、作業中の運転手に尋ねた。すると即座に「エレベーターで5階、すぐ前です。ママも来てます。」という答えであった。