ごま塩ニシン

夜霧の巷(37)

自作小説

 ビジネス手帳の文字を菅原は指差して質問した。
「ここに信太盛太郎という名前が出ているでしょう。この方のことについて、何か、お話をお聞き出来たらと思って、突然ですが、訪ねて来たのです。」
「もう、昔のことですし、何も覚えておりませんわ。昨年、正信さんの7回忌をされたのでしたら、もう8年も前になりますね。それに失礼ですが、こうした商売をしております関係から、お客様の個々の情報については、たとへ知っていても、お話しすることはできませんわ。というより、本当に忘れましたわ。」
 美佐は菅原を突き放すように言ったが、声に刺々しさがなかった。
「それは、よく存じあげておりますが、何か、思い出していただくわけにはいかないでしょうか。店のオーナーの雪枝さんにも、できたらお聞きしたいのですが。」
「ママは体調をくずしておりますので、しばらく休んでいるのですよ。ただし、名刺をいただきましたので、菅原さんがお越しになったということは伝えておきます。今日は店の清掃もありますので、この辺でお引き取り願えませんでしょうか。」
 こう言って、美佐は掃除機のスイッチを入れた。
 この時、エレベーターのドアが開いて、一人の青年がクラブ夕霧の玄関に立った。青年は美佐の方を見て、「おはようございます。」と軽く会釈してから、菅原へ鋭い視線を向けて来た。
「新谷君。その方がお帰りになるので、お見送りしてちょうだい。」
 美佐は掃除機のスイッチを切らずに、こう言ったものだから、新谷と呼ばれた青年は「追い出してくれ。」と解釈したのだろう。閉まりかけたエレベーターのスイッチにタッチし、青年は「早く、乗れ。」と語気鋭く言った。左手で菅原をつまみ出すような仕種もした。せっかく見つけた有力な手掛かりだったのに、伯母の陽子にも美佐にも、軽く遇(あしら)われたことで菅原は目に見えない壁を感じた。