夜霧の巷(45)(第二章)
植村雪枝の病室のドアを開けた時、北川美佐は決意をした。それは信太盛太郎の事故死を雪枝に告げることであった。彼のことを何時までも黙っていられなかった。クラブ霧笛の古くからの顧客であった信太盛太郎が港に死人となって浮かんでいたという不名誉なことを雪枝が知ったならば、症状の良くない病人にとって大きな精神的負担をかけることは間違いなかった。ただ、胸にしまっておくのもいいが、信太盛太郎の死は美佐にとっても、気持ちの上でトゲとなっていたのでオーナーの雪枝に打ち明けることで美佐は胸の重しを取りたかった。
貨物船がゆっくりと岸壁を離れるところであった。曇り空であったが、港の風景を眺めながら美佐は手提げ鞄に入れてきた港タイムス記事のスクラップを見せた。
「もう、1か月ほど前になるかしら、港に身元不明の人が浮んでいたというニュースを覚えておられません。実は信太盛太郎さんだったのよ。もちろん、後で分かったことなの。あの日、盛太郎さんが店に来てくれて、夕方から遅くまで飲んでおられた。地下鉄の終電に乗って帰るというから、私がビルの下まで送っていったの。そうしたら雨が降っていた。私が傘を取ってくるから、待っていてと言って、引き返したの。で、傘を持って降りてきたら、終電に間に合わないと思ったのか、盛太郎さんの姿はなかったわ。この後、運河の橋から転落して、港に浮かんでいたなんて、想像できなかった。それが警察の方やら、港タイムスの記事やらで、事故死したのは信太盛太郎さんだったと分かったのだけれど、入院しているママに報告したら、心配してショックを受けるだろうと思って、今まで黙っていたの。本当に御免なさい。報告が遅れて。」
美佐は覗き込むように雪枝の顔を見た。
「そうだったの。何も、あなたが謝ることないでしょう。信太盛太郎さんね。長い長い付き合いの人だったわ。亡くなったの。美佐さんが店に来てくれる何年も前からのお客さんでだったから、本当に残念ね。というより、不運な死に方をされて、こんな悔しいことってないわ。」
こう言ってから、雪枝は天井を見つめた。何か遠い過去の記憶を手繰り寄せているようであった。この時、雪枝の頬に涙が落ちるのを美佐は見て、美佐は胸が締め付けられた。慌ててハンカチを雪枝に手渡した。やはり動揺したのか、雪枝は布団を顔に被せて泣き出した。肩を揺すって雪枝が泣くものだから、美佐は黙っておけばよかったかと後悔した。