もえーん

「思考」するということ

日記

読まなくていいやつですが、まあいいや。

読みたかったら読んでくださいw



































最近はたと思ったのですが。。。。
いや、「思考」って良くできた言葉だな~、と。。。

ちょっと検索してみました。

ウィキペディア(いまさらですが、ウィキペディアは不特定の個人が勝手に共著して何の正確性の保証もないものだということをお忘れなく…)で目についた記述。

”知的直感を含める場合もあるが、感性や意欲とは区別される。哲学的には思惟(しい、しゆい)と同義だが、大森荘蔵は『知の構築とその呪縛』(p152)にて思考と思惟の差について言及し、思惟とは思考を含みつつ感情なども包括した心の働きと定義している。

大森荘蔵さんの話は面白いですね。大森さんの本は学生時代によく読んだものですが(卒論にも少し使わせてもらったはずです)、この本は読んでません。94年に筑摩から出ているので、まさに在学中に発刊されてたのですがw

ブリタニカだとこんな感じ。
”思惟ともいう。はっきりした定義はないが,一般的には,ある対象,事態ないしはそれらの特定の側面を,知覚の働きに直接依存せず,しかもそれと相補的な働き合いのもとで,理解し把握する活動または過程をさす”
大森さん、そのままですw



思考って、「思い」「考える」ですよね。なので、私の解釈は大森さんに近いのですが、でも根本的には違う。私は、まず「思い」、それから「考える」なので、時系列がそこにはあります。

前にも少しだけ書いたことがあるような気もしますが、「考える」とは知識と、想像力と、人生経験が支える行為だと思っています。もう一言加えれば、あえて「思考」という言葉を使いますが、「思考」とはすべて、知識と、想像力と、人生経験のもたらす直感から始まるものだと思っています。

知識と、経験と、想像力がモワモワとつながった緩やかな体系、それが「教養」。

教養を元に、考えるべき事の意味を大局的に掴む力、それが「センス」。

優れた気づきや発想を生むのは、そんな教養とセンスに裏打ちされた“まだ言語化されていない論理”、それが「直感」

この教養とセンスと直感の総体を、「知性」というのです。



えらそうな事を言うようですが、よく”考えてるよ”っていうのですが、けっこう考えてないんじゃないかな、思っているだけで。思って、そして考える、そこまでやって思考しているって言える。そして思考にまで至らないような”思っている”は、わたしの先ほどの話から言えば、思ってすらいない。なんか頭に浮かんだ感想を口にしただけ、という感じかもしれません。

話をしていてどうにも議論にならない原因は、結構ここに由来することがあるよなと思います。