夜霧の巷(46)
信太盛太郎の死が自分の遠い過去の出来事に関連しているのではないか。恐怖に似た不安を感じた瞬間、雪枝の全身が震えた。全身をずぶ濡れにした信太の姿を一瞬、見た思いがした。亡霊を払うかのように雪枝は布団を跳ねのけた。すると目の前に美佐の顔があった。
「ママ。大丈夫?いきなり泣き出すものだから、びっくりした。」
「ごめんね。心配させて。信太さんには昔、大変世話になったものだから、急に亡くなったと聞いて、動揺したのよ。もう、大丈夫だから。この際、美佐ちゃんに話しておきたいことがあるの。聞いてくれる。」
「でも、体の調子はどうですの。無理しないで。」
私の遺言だと思って聞いて。こう言って雪枝は話し始めた。
「私の若い頃のことは何も話していないよね。一度、聞いて欲しかったの。信太さんが亡くなったと聞いて、決心がついたわ。信太さんは昔、商社に勤められていたのよ。主に東南アジア諸国の道路建設プロジェクトを企画して資材やら機械類を輸出していたの。当時、私は若かったからTY国の民主化運動の支援とかボランチアで日本語教育の支援活動をしていたのよ。その活動の中で信太さんとも知り合いになった。男女の関係があったというのではないのよ。誤解のないように最初に言っておくわ。ただ、いろんな面で信太さんには応援してもらった。日本の経済支援で現地に事務所を構えていた建設会社と繋がりを付けてくれたのも信太さんだった。」
「建設会社というのは店にも来てもらっていた新陽建設のこと。」
ここで美佐は口を挟んだ。
「そうよ。専務の早水正信さん。あの方も亡くなってしまったわね。何か、胸にジーンと迫ってくるわ。思い出というのは、記憶の中から湧いてくる蒸気のようなものね。急に思い浮かんでは、ふーと空中に消えていくわ。」
「早水さん。よく覚えていますわ。この人のお蔭でクラブ霧笛が開店できたとママが言ってましたね。」
「古いことを、よく覚えているわね。」
雪枝はこう言って、美佐の手を握り締めた。
「何度もママに聞かされましたから。」
痩せているのか、強く握り返すと雪枝の手の骨が折れそうに感じられた。