夜霧の巷(49)
美佐が居なくなって、雪枝は気が楽になったのか。それとも、過去の自分の生きざまを誰かに聞いてもらいたくなったのか、郷愁を誘う表情をして菅原慎一郎に声をかけた。
「菅原さん。あなたの伯父さんの早水正信さんには大変、お世話になったわ。何の恩返しもできない内に亡くなられて、本当に残念ですわ。何か、お役に立てることがあれば、協力はさせてもらいますよ。ただ、どうして信太盛太郎のことに興味を持っておられるのか、それをお聞きしてからです。」
この雪枝の提案は晴天の霹靂であった。まさか、初めて会ったクラブ霧笛のママから、こんな積極的なことを言ってもらえるとは菅原は考えていなかった。
「港で亡くなられた信太盛太郎が、何か得体のしれない力で死に追いやられたのではないかと、思えてならないのです。警察は事故による溺死と断定したようですが、疑問に思えてならないのです。私はルポライターを目指していますから、信太盛太郎さんの身の上に起こった出来事を何とかして解明できないかと真剣に考えているのです。」
菅原の声に熱が入った。謎の扉を何とかこじ開けたいの一心であった。
「そうね。いきなり、数十年もの昔話をするのもエネルギーが入ります。今日は霧笛にでも寄って、お酒でも飲んで帰ってください。私は心の整理をして、体調も良くなったら、すべてをお話しします。それまで時間をください。」
「わかりました。突然、病室に押しかけて来て、厚かましいお願いをして、申し訳ありません。」
「いいのよ。死ぬ前に過去の出来事を、誰かに聞いて欲しいという強い思いが以前からあったの。水沢さんに感謝です。あなた、いい人を連れて来てくれましね。」
こう言って、ママは手を差し出した。水沢課長に続いて、菅原も握手することができた。
「それじゃ、美佐ちゃんに連絡しておくから、必ず寄って帰ってね。」
雪枝の病室を出てから、水沢課長は菅原の背中をポンと叩いた。
「よかったじゃないか。ルポライターになりたいなんて、バカなことを考えてやがると思っていたが、これを契機に独り立ちできるように頑張れよ。」
「本当に感謝です。課長のお蔭です。」
「おいおい。俺はお前の上司ではないよ。」
こう言って、二人は笑ってエレベーターに乗り込んだ。