ごま塩ニシン

夜霧の巷(54)

自作小説

 菅原は病院の近くの商店街で小さな果物籠を買った。午後2時まで待ち切れず、植村雪枝の病室がある5階まで上がって、廊下の長椅子で待っていた。
「あらー。あなただったの。」
 こう言って、北川美佐が声をかけて来た。
「昨日はどうも、ありがとうございました。」
「お礼なら雪枝ママにいってちょうだい。ということは次回からは通常料金をいただきますという意味です。」
 きつい言葉を発した割に美佐の眼は柔和であった。
「いやー。厳しい。よーく理解しております。肝に銘じておきます。」
 菅原は後頭部に手をやって苦笑した。自分の懐具合が見透かされていると菅原は気恥ずかしい思いをした。美佐は顔見知りの看護婦に軽く会釈をして、「検温、終わりました。」と声掛けしてから病室に入った。
 雪枝は窓の方に首を向けて、白い大きな雲を眺めていた。食欲が落ちているのか、横顔を見ていると頬の肉がやせ落ちてきているように感じられた。
 美佐は手提げカバンから大きな封筒を出した。
「ママ、これ、どうしましょうか。」
「そうね。いっそのこと、菅原さんに渡して。」
 雪枝が、このように言ったものだから、美佐の手にあった封筒が菅原に回ってきたのであった。それは、ずっしりと重い物であった。
「何か?」
 菅原は一瞬、驚いて雪枝と美佐の顔を見比べた。
「菅原さん。その封筒に入っている書類と写真は私の青春時代の資料なの。私のすべてと言っていいでしょうね。燃やしてしまおうと、何度も思ったけれども、焼かずに持っていてよかったわ。菅原さんという人に出会えて、私の思いを記録に残しておこうという決心がついたわ。これから、私が話をする際、封筒に入っている資料を参考にしてもらえれば、いいと思ったの。」
 ここから植村雪枝の壮大な記憶の扉が開くことになる。それは信太盛太郎の生死の遠因の解明にもなるものであった。菅原は重い封筒をしっかりと握りしめると、全身が震えるてくるのであった。