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将門って本当はどんな人だったの? その11

勉強

平将門は興世王と謀って坂東へ兵を進める。

「物語の舞台を歩く 将門記」村上春樹著によると。

”天慶二年(九三九)十二月十一日、将門は数千の兵を率いて下野国(現、栃木県)に渡った。それぞれ竜のような馬に乗って、多くの従者を率いていた。鞭をあげて、蹄の音を響き渡らせて、まさに万里も山道が続くような大きな山を越えようとする勢いである。おのおのが士気をあげ、一〇万の軍にも勝とうとしていた。下野国府に着くと、入場の儀式を催した。これは、国府に入る際に、軍兵の威容を示すような儀式を行なったものと考えられている。新任の国守藤原公雅と前任の国守大中臣全行は、あらかじめ将門軍が国を奪おうとしている気配を見抜いて、将門に再度礼拝(低頭・合掌して恭敬の意を示すこと)して、すぐに地面に跪いて国印と国倉の鍵を差し出した。
このような騒動の間に、国庁の館の内や国府の周辺の建物などはすべて略奪された。将門は、強健で才覚のある使者に命じて、長官の公雅と全行を都へ追放させた。長官は、みずからの在任中にこのようなことがおこったことから、「天には五衰があり、人には八苦がある。今日私はこの苦しみにあった。どうしたらよいのだろうか。時が改まり、世の中がかわり、天地に道理が失われた。善がなくなり、悪がおきて、仏も神も効験がない。悲しいことだ。もっとも大切な占いの道具がなくなっているのだ。鶏の占いの道具は、古くなっていないのに西方に飛び去るように失われ、亀甲の占いの道具も、新しいままに東岸に消滅してしまった」と声をあげて嘆いた。
普段は車で外出する国司の家族など身分の高い女性や子どもは、今は車に乗ることができず、霜を踏む徒歩の旅に出た。国司の従者は、馬に乗らずに、雪の山道に向かった。国司たちが赴任した治政の初めの頃には、国庁の役人が結束して、善政を行なっていた。しかし、任期の最盛期になって、人びとが、国司の悪政を嘆いて爪弾きをするような状況になっていた。国司は、四度の公文などをとられ、在任中の国司としての俸給までも奪われて、むなしく都に戻って行った。国内の役人や人びとは、その姿をみて涙を流した。国外の身分のある男女は、声をあげて哀れみ、悲しんだ。天下には騒動があり、世間は疲弊しているといっても、これより甚だしいことはない状況であった。国司らは苦しみながら東山道を進み、ついに、都にたどり着いた。
将門は、天慶二年(九三九)十二月十五日、上毛野(現、群馬県)に移った。上毛野介藤原尚範は、国印と国倉の鍵を奪われ、十九日には都に追放された。その後、将門は国府を占領し、国庁に入った。国庁の四方にある門の警護の者が詰めている屯所をしっかりと確保して、諸国の除目(平安時代以降、諸司・諸国の官を任じる儀式)を、公を憚ることなく勝手に行おうとした。
このとき、一人の巫女があらわれ、八幡大菩薩(八幡神のことで、応神天皇を指す)の使いと称して、「朕の位(天皇の位)を蔭子平将門に授ける。その位記は、菅原道真の霊魂が上表し、八幡大菩薩が八万の軍をおこして授けよう。三十二相の音楽(仏のすぐれた特性を歌う仏教音楽)を奏して迎えなさい」と告げた。なお、この頃、五位以上の貴族の子は、位階を与えられて官職に就く機会を得る制度があり、これに該当する者を蔭子といった。将門は、父が鎮守府将軍で五位以上と考えられ、蔭子である。また、位記は位階を授ける際に与える文書である。天皇にも位記があり、その位記を奏するのが菅原道真の霊魂とするが、これは『将門記』作者の創作と考えられる。巫女の言葉を聞いた将門は、頭上に両手を高くあげて、位記を受ける動作をして再拝した。四方の門の兵は立ちあがって喜び、数千人が伏し拝んだ。また、興世王と常陸掾藤原玄茂らは、そのときの主催者(中心となって物事を取り仕切る人)となって、貧しい人が富を得たかのように喜び、蓮の花の美しい色が開き広がったように華やかに笑った。興世王らは諡号(おくりな。ここでは称号の意味)を奏上し、将門を新皇と名づけた。”

将門軍は向かうところ敵なしで下野、上毛野を手中にして、意気上がっていた。八幡大菩薩の巫女も創作とも言われるが、実際に興奮状態のときにはトランス状態になって神懸かったりもする。あるいは、士気を高めるために将門陣営のだれかが仕込んだという説もある。

いずれにしても将門は決定的に朝廷が敵と認定することをやらかしてしまった。

つづく。


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