初音ミクは成長しない
別に・・・
読まなくていいかな・・・
3年ぶりに、初音ミクのライブ(マジカルミライ)に行ってきました。
チケットは抽選なのですが、SS席のAブロックととBブロックが当たりました。外れると席が確保できないので、2公演分を申し込んだら、両方当たってしまいました。SS席Aブロックというのは、要は一番前のブロック。当たれば普通は(*´Д`)ハァハァしちゃう席ですが、私そっちを売り払ってしまいました。基本的に私は無茶苦茶いい席ばかりを結構安価に確保してきていて(技があるのです)、最前列の席をゲットしたことがもあるのですが、落ち着いてみたいなら前過ぎるのも良くはない。今回は状況確認で出向いたろころもあるので、Bでいいやと言うことで、Aは売り飛ばしました。ネットで売りに出して数分と経たずに売れてましたw
閑話休題
3年ぶりの初音ミク。うーむ、Bブロックだとやっぱ表情までは見辛いな。まあいいか。そんなことよりも中身の方ですが。。。
既に初音ミクが登場して既に13年、ボーカロイドと言う意味ではもう少し前からになるけど、端的にこの先の展開が何も見えない。アイカツとコラボしたり、その手の事はまあ色々してる。プロジェクトセカイも分かりますよ。でも、それは他のコンテンツに相乗りしている以上でも以下でもなくて。ボーカロイドも公式にはすでに4年間バージョンアップもない。マジカルミライ自体も、要は初音ミクが出て来て歌って踊っておしまい。スタート当初はもちろんそれだけで感涙ものだったのかもしれないが、今となっては客が入るからやってるだけの惰性としか受け取れない。
そもそも私が初音ミクに興味を持ったのは、アニメとかそっち系の流れではありません。10年近く前に東日本大震災を機に、実用性のないロボットなどと全く意味のない愚かな世間の批判の前に挫折した、産業技術総合研究所の開発していたヒューマノイドHRP-4C、通称として未夢(みーむ)の存在でした。
存在するとはどういうことか
私の目線は、高校生の頃からそこに帰結する
とあるロボット関係の展示会で、歌って踊るHRP-4Cを見た時の衝撃と違和感と、しかしその姿に涙を流してしまった自分の感覚の先に、初音ミクの存在がありました。「そこにはいないのに、いる」という技術的に言えば要は映像が投影されているだけという身も蓋もない事実の先に、私は何かを見たかった。
人間はアンドロイドに恋が出来るのか、というのは大昔から言われること。小説と言わず、漫画と言わず、その手の話は枚挙に暇がありません。陳腐な話なのでしょう。でも私の答えは、確実にYESです。
初音ミクの映し出される透明な投射版の先に何を見たかったのかは、わたしも改めて問われると答えに詰まります。ないけど、ある。それは「なくてもいいんだ」という逃避先なのかもしれません。なくてもあるのであれば、ないところにまどろんでもいいんだという自己逃避なのかもしれない。未夢は人じゃない。人じゃなくてもいいんなら、それは楽だな、と。
存在の耐えられない軽さ、という小説と映画がありました。人生は重いのに、あんたは軽いのが耐えられない、と。軽いことを自覚するのは、重いことなんだと思うけど。重いから軽くなる。
とりとめもない話ですみません。
存在の耐えられない軽さ、という小説と映画がありました。人生は重いのに、あんたは軽いのが耐えられない、と。軽いことを自覚するのは、重いことなんだと思うけど。重いから軽くなる。
とりとめもない話ですみません。