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芭蕉が愛した木曽義仲 その10

勉強

寿永2(1183)1020日。義仲は後白河法皇に対して、寿永二年の宣旨について遺恨を申し立てた。玉葉には「其の一は、頼朝を召し上げらるる事、然るべからざる由申すと雖も、御承引無く、猶以て召し遣はされたり。其の二は、東海・東山・北陸等の国々に下されし所の宣旨に云う、もし此の宣旨に随わざる輩においては、頼朝の命に随い追討すべしと。此の条義仲生涯の遺恨たるなりと」と記されており、頼朝の上洛を促したこと、十月宣旨を出したことへ、義仲生涯の遺恨として猛烈な抗議だった。

1021日、義仲は頼朝追討の宣旨または御教書の発給を求めたが、認められなかった。源氏一族が義仲邸に集まって法皇を奉じて関東へ出陣する案を出したものの、源行家、土岐光長らの反対で潰れた。閏1026日、興福寺の衆徒に頼朝討伐の命が下ったが興福寺が承引しなかった。

寿永2(1183)114日。源義経の軍が不破関(岐阜県不破郡関ケ原町)に達したことで、後白河法皇近辺は義仲と一戦交える主戦派が主流となる。1116日、延暦寺、興福寺、摂津源氏の多田行綱、美濃源氏の源光長らが法皇方について優勢と判断した後白河法皇は、1117日に義仲に強烈な最後通牒を突きつける。「ただちに平氏追討のために西下せよ。院宣に背いて頼朝を討つなら、義仲個人の資格で戦え。京に留まるなら謀叛と見なす」と。

義仲は、西で平氏と戦うか、東で頼朝と戦うか、京に留まって天皇を奉じて立て籠もるかの選択しかなくなった。いくつかのもしが許されるなら、西で平氏と結んで頼朝と戦う選択があり、いったん北陸へ下って立て直す選択もあった。真正面から源範頼、源義経の鎌倉軍と戦うことは愚策であり、養和の大飢饉で食糧がほとんどない京に留まるのは自殺行為だった。

義仲は「君に背くつもりはない。鎌倉軍が入京するなら戦うしかないが、入京しないのであれば西へ下向する」と答えたが、17日八条院、18日上西門院、亮子内親王が法住寺殿を去り、北陸宮も逐電する。入れ替わりに後鳥羽天皇、守覚法親王、円恵法親王、天台座主明雲が御所に入った。

寿永2年(1183年)1119日。義仲は法住寺殿を襲撃する。玉葉によると昼過ぎに黒煙があがり、夕刻には官軍が破れて法皇は捕獲されて五条東洞院の摂政邸に遷された。天台座主明雲、円恵法親王、源光長、光経親子、藤原信行、清原親業らが討死した。後白河法皇が義仲追討で兵を集めての戦いで、官軍が散々に破られたかつてない出来事であった。

義仲は22日に松殿基房の子の師家を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立し、前摂政近衛基通の家領八十余ヵ所を手に入れた。

続く。


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  • kiri

    kiri

    2021/07/19 21:46:57

    >ありおりはべりさん
    こんばんは^^コメントありがとうございますm(__)m
    九条兼実は「玉葉」の中で、人をやって見にいかせているので、本人が見たのは黒煙があがったことくらいでしょうね。当時は外へ出て見たかどうかも怪しいです。

    義仲は北陸宮を奉じて筋を大切にする武将なので、後白河法皇を襲撃するなんてことは考えてもなかったはずです。しかし、後白河法皇は側近や天皇にまで「あいつはおかしい」って言われるくらいの幼稚園児がそのまま大人になってわがまま放題って感じで挑発し続けた結果、義仲は身を守るために侵攻したと思われます。

    飢饉のことを考えると範頼、義経が先なら京童に蛇蝎のように嫌われたのは鎌倉軍だったでしょうね。

  • ありおりはべり

    ありおりはべり

    2021/07/17 01:34:19

    九条兼実の日記 玉葉 は有名な古文書ですが

    今の世でもそうですが しかし 尊い人といっても やはり 人は目の前に覆いつくすぐらい兵士がいると武士がいると分からないのでしょうね

    兵士の数 軍勢の動員数など 言われても

    ?どうなのか?ぐらいの雰囲気ではなかったかなと思うと
    直臣までいかなくても側近ぐらいの命も簡単に奪われてしまうのは

    怨恨ということでしょうね

    源氏に源氏を討たせる 三国志の曹植ではないですが 豆がらをもって豆を煮ではないですから
    これは義仲が怒る遺恨に思うわけで

    あんたらは よし一つ自分が肝を据えて やってみるかと 摂政を据えたのでしょうね
    それで天皇家は一定の権限ではなく依存と言える 幕府の仕組みに傾いていき

    もちろん 頼朝の話ですが あとは秀才ぶりは優秀さもありますが じゃあ義仲と頼朝となると
    入京の順番であったり 権力に近づいた順序であったり 運かなーと思うと

    歴史のトホホ感が半端ないですね(;^_^A

    天皇家は江戸末期まで 穀物の神が如く祭事 祭祀を行い 武士は政(まつりごと)を行う風潮になり
    まあ手法とはいえ 武力を持たない天皇家は 明治になって 一気に軍権を間接的に持ちましたが

    とはいえ 薩長土肥じゃないですが 歴史というか人間は存外、時代と品物が変っても
    立場で言えば変わらないのでしょうねー

    自分は最近になって 水やお米に感謝しないとダメな気がするようになってきましたが
    信仰心というよりも お米の神様や 新嘗祭を行う 現在の天皇家の祭祀は

    この世の日本の平穏のために必要なことなのではとはこれも最近は思うようになった気がします。

    では~