きいてニコタリーナ

きよ

ちょっと整理したいんだけど

中間報告と「推し活」雑感

日記

なんか疲れた。

休み疲れだ。
仕事が恋しいと思う日が来るとは。
まだ半分以上ある。

これは要するに
わたしの創造性のなさの表れである。
長い休日を充実したものにデザインする能力がない。
あるいは充実した休日を完遂する能力がない。
飽きてしまった。

週5日、与えられた仕事を脳死でこなして
2日間の休息を必死に楽しむ。
早くもそういう生活に慣れてしまった。

こういう人間を社畜、というらしい。

社畜の適性があることは薄々感じてはいたが、
こんなに早く実証することになるとは。



車用のコンパウンドを買ってみたが、
使う前に確認したらガラスには使えないやつだった。

確認ミス。余計な出費。
未開封だけどレシート捨てちゃったから
あとでメルカリで売るしかないか。

その後ガラス用のコンパウンドを買い直した。

しかし必死こいて磨いても
グラスアイの曇りは取れなかった。
残念無念。

(曇り、でいいのかな。傷?
アイの一番出っ張ったとこに、
光がもやっと反射する部分があるっていうか)

こういうアイなんだと思って使うか、
別のアイを探すか迷うな。

ラズベリーピンクっぽい綺麗な色で、小虹彩で、
アビーによく似合うから気に入ってるんだけど。

メイクのほうは、一番苦手な筆作業は終わった。
ちょっとまつげをバサバサにしすぎたかもしれない。

明日にでもパステル作業をしたい。

微妙な天気が続くから、
つや消し吹くのをためらうね。
除湿かければ平気?

あと気圧も上がったり下がったりでしんどい。
涼しくなったのだけはうれしい。



布ボディの試作をしてみて思ったのは、

わたしは布や糸に対する愛情って
そんなにないんだな、ということだった。

作家さんの布作品や刺繍作品を見ていてよく感じる

布や糸への、
あるいはそれらを用いた手仕事自体への、
ないしは象った対象への、

溢れんばかりの愛、と比較してのことである。

わたしは……

「ともだち」

……でもないんだけど、んーいい言葉が見つからないな、
とにかく人間なんかよりもっと確実に
ずっとそばに寄り添ってくれる存在が欲しくて、

それを形にしたイメージがさしあたり「人形」だっただけで、

人形を作る作業も、そのための素材も、人間も、
そんなには愛していない……のかもしれない。

もしかしたら、愛それこそが
財になり得るものかもしれないのに。

……何かを、愛したい。
推しが、欲しい。一生の推しが。
たぶん。

人でも物でも行為でもかまわない。

他人様が何かを、誰かを愛するのがうらやましい。
あの眩しいものが愛なの?
なんでわたしにはできないんだろう?

あんなひたむきな情熱を、
わたしも持つことができたなら。

わたしの感情は散漫で、取り留めなくて、
一つの対象に集中するようにはできていない。

……いや、昔はそうでもなかったかもしれない?

ある一人のお友達が大好きすぎる女児、
だった時期が確かにあった。

幼少期、その子や周囲を散々困らせて、
あと初恋もどきもあったな、
皆の恋バナがうらやましくて、
話に入るためにクラスで一番顔が好みの
適当な男子を好きになった。
好きってことにして、自分で信じ込んだ。

その男子のことも最終的に
ストーカーもどきみたいになっちゃって
かなり困らせたような記憶がある。

で、思春期に入る頃に悟った。
わたしはかなり、重い。
情が濃い、ともいう。

一人の対象をのめり込むように愛することは、
自分のためにも、相手のためにもならない。

で、誰かを(生身の他人を)
一心に好きになることを
極力やめたような気がする。

(自分を上手に愛せなくなったので
他人を愛することもできなくなった、
とも言えるかもしれない)

そのせい……?

過去の自分に会えるなら、
そこは試行錯誤して上手な愛し方を探すところやぞと、
ひとを愛することすらやめたらあかんぞと
一発殴ってきたほうがいいんだろうな。

残念なことに、今そこそこ快適。
たまにこうしてちょっと寂しくなるくらい。

やっと自分を愛する感覚も戻ってきたし、
死ぬまでには他人も愛せるんじゃないかな?
知らんけど。

閑話休題。

……現在わたしの中で
最も鮮烈な「愛」があるとすれば、
それは二次元に向けたもののような気がする。

二次元というか、架空の、人間。キャラクター。

鏡音リンちゃんを愛し、キドさんを愛し、
松野十四松くんを愛し、カリムくんを愛した。

ただまあ、上手く愛せてる、とは言えないよなあ。

だいたいのめり込み過ぎてつらくなる……。
非実在人間に対してすらこれ。
三十路の現在ですらこれ。

たとえば二次創作で発散できるようになったら、
またちょっとは違うのかな?
今のところ、予定はないけど。

……激しくも鮮烈でもないけれど、
一番上手く、穏やかに愛せている相手と言ったら
やっぱりドール、かなあ。

一番自分のペースで推せるというか。
まあたまに金銭感覚ぶっ壊れるけど。

ただ、今書いてて気づいたけど、
「推し活」って今の時代、
一人ではなかなか完結しないのね。

「推す」って言葉がもう
誰かに対して、ってニュアンスだもんね。

誰かに「わたしはこの子を推してるよ」
「わたしの生活はこの子のおかげで充実してるよ」
って発信することまで含めての「推し活」というか。

発信しない「推し活」は存在しない、かもしれない。
シュレディンガーの推し活。

承認欲求ともまた違って……違うのか?
わからない。一部被ってるかもしれない。

……要するに、わたしは、
もっとSNSを活用して「推し活」を発信すべきなのか?
ってことで悩んでいるのか?
(疑問の重複)

寂しくないよ充実してるよと言い張れば
寂しくないことになるのか?

誰かのために何かをすると、
「自分はこの相手を好きなのだ」
「だから相手のためにこれをしたのだ」と
事後的に脳が勘違いするらしい。
そういうこと?

何かを、誰かを愛したければ、
まず自分自身に愛を証明すること?

使ったお金と時間とSNSの投稿のぶんだけ
愛が深まる、かもしれないってこと?

だから人は推し活をSNSに投稿するの?
SNSがなかった時代の推し活ってどうだったの?



あっやっべ2500字いきそう。
迷走してきたのでいったん締めますね。