本日のキラキラ タウン 2021/12/12 21:33:22 仮想タウンでキラキラを集めました。 2021/12/12 集めた場所 個数 ビーチ広場1 5 ペット海浜公園 4 9個。 海月 玲二楽 2021/12/15 14:10:47 今日は、こちらは暖かです。お散歩日和かな??? お昼は、”餃子の王将”!!!久しぶりに行って、お昼の12月のお勧めに行ってきました。 なかなかうまい。 午後からは、少し、気合い入れて、仕事の続きいたしまする。 違反申告 海月 玲二楽 2021/12/14 15:27:52 今日は、森の妖精に会いましたーー!wwwwwwww って思ったら、シアノバクテリアくんでした!w 乾燥してくると、スミの方に溜まってくるんですよね。 で、仮死状態になって、湿ってくると、ふやけてきて、また、”活動”(といっても、植物に近いので、動くわけではないのですが、)始めたり!面白い微生物です。 たまに森で楽しく暮らしたくなりますね!www 違反申告 海月 玲二楽 2021/12/13 16:28:21 この洛中!って言葉ですが、ね!だいたい、平安京の”区域”をさしていますが、少し、はみ出しや、くっついている部分もあります。 https://kyotolove.kyoto/I0000181 このページに、詳しい説明がありますね!www 平安京の「大内裏」のど真ん中から南に延びる大きな通りが朱雀大通りで、これは、南へ、5条も、7条も突っ切って、9条まで伸びています。で、その”右”側(内裏から見て、左側)に、東寺が残っていますね!東寺というのは、俗称であり、本当は、教王護国寺(真言宗)と言います。詳しくは、コトバンク: https://kotobank.jp/word/教王護国寺-52442 796年ですから、平安遷都(794)後、直ぐに、王城の地の守護として、羅生門の左右に造営されたのですね。羅生門とは、9条で、朱雀大路が尽きたところのある、洛中へはいる門です。 ちょっと、余談に流れましたね。閑話休題: 洛中の話に戻りましょう。最初に紹介したページの下の方に、洛中の範囲が明示してあります。 意外? 金閣、銀閣、清水、南禅寺などは、外れていますね!一方、相国寺、大徳寺などは、入っています。この辺りの歴史も調べてみると面白いです。 秀吉は、尾張の水飲み百姓の子で:田舎者だったで、”面倒だぎゃー!洛中は囲ってまうだぎゃ!w”といって、”御土居”というもので、洛中を囲ってしまいました。京都・大阪を中心に商都を作り、商業に立脚した政権を目指していた秀吉らしい発想でもあり、洛中の防衛圏を明らかにしておきたかったのでしょうね!京都の町人からしてみれば、「田舎者が物々しい!」なんとなく、内側のものだけがわかってたらええのや!ってとこでしょうが、現実家で、軍事の大将でもあった秀吉としては、当然だったでしょう。 で、洛中の範囲を明確にして、そのど真ん中に、”聚楽第”ってのを作ったわけです。これは、元の大内裏のあたりで、名実ともに、自分を”日本の王様”と知らしめたことになりますね!藤原北家の嫡流あたりは、影で舌打ちしている図が思い浮かびます! 二条城はそのすぐ南にあります。家康の武家の棟梁としての示威行為 あ、そうそう、昔の京都駅の”山陰線のホーム”は、この秀吉の御土居の残りを使って、プラットホームに利用したものだっただそうですよ。 違反申告
海月 玲二楽
2021/12/15 14:10:47
今日は、こちらは暖かです。お散歩日和かな???
お昼は、”餃子の王将”!!!久しぶりに行って、お昼の12月のお勧めに行ってきました。
なかなかうまい。
午後からは、少し、気合い入れて、仕事の続きいたしまする。
海月 玲二楽
2021/12/14 15:27:52
今日は、森の妖精に会いましたーー!wwwwwwww
って思ったら、シアノバクテリアくんでした!w 乾燥してくると、スミの方に溜まってくるんですよね。
で、仮死状態になって、湿ってくると、ふやけてきて、また、”活動”(といっても、植物に近いので、動くわけではないのですが、)始めたり!面白い微生物です。
たまに森で楽しく暮らしたくなりますね!www
海月 玲二楽
2021/12/13 16:28:21
この洛中!って言葉ですが、ね!だいたい、平安京の”区域”をさしていますが、少し、はみ出しや、くっついている部分もあります。
https://kyotolove.kyoto/I0000181
このページに、詳しい説明がありますね!www
平安京の「大内裏」のど真ん中から南に延びる大きな通りが朱雀大通りで、これは、南へ、5条も、7条も突っ切って、9条まで伸びています。で、その”右”側(内裏から見て、左側)に、東寺が残っていますね!東寺というのは、俗称であり、本当は、教王護国寺(真言宗)と言います。詳しくは、コトバンク:
https://kotobank.jp/word/教王護国寺-52442
796年ですから、平安遷都(794)後、直ぐに、王城の地の守護として、羅生門の左右に造営されたのですね。羅生門とは、9条で、朱雀大路が尽きたところのある、洛中へはいる門です。
ちょっと、余談に流れましたね。閑話休題:
洛中の話に戻りましょう。最初に紹介したページの下の方に、洛中の範囲が明示してあります。
意外? 金閣、銀閣、清水、南禅寺などは、外れていますね!一方、相国寺、大徳寺などは、入っています。この辺りの歴史も調べてみると面白いです。
秀吉は、尾張の水飲み百姓の子で:田舎者だったで、”面倒だぎゃー!洛中は囲ってまうだぎゃ!w”といって、”御土居”というもので、洛中を囲ってしまいました。京都・大阪を中心に商都を作り、商業に立脚した政権を目指していた秀吉らしい発想でもあり、洛中の防衛圏を明らかにしておきたかったのでしょうね!京都の町人からしてみれば、「田舎者が物々しい!」なんとなく、内側のものだけがわかってたらええのや!ってとこでしょうが、現実家で、軍事の大将でもあった秀吉としては、当然だったでしょう。
で、洛中の範囲を明確にして、そのど真ん中に、”聚楽第”ってのを作ったわけです。これは、元の大内裏のあたりで、名実ともに、自分を”日本の王様”と知らしめたことになりますね!藤原北家の嫡流あたりは、影で舌打ちしている図が思い浮かびます!
二条城はそのすぐ南にあります。家康の武家の棟梁としての示威行為
あ、そうそう、昔の京都駅の”山陰線のホーム”は、この秀吉の御土居の残りを使って、プラットホームに利用したものだっただそうですよ。