NIPPON RISE
第一章
IN THE WAKE OF CAT FISH(前編)
日本海底の大和堆や武蔵堆をかすめ
そのさらなる地底で
たまさか微睡んでいたものが
今何故か(いや、必然なのか)目覚めようとしている
それも数十万年振りに
大粒の雪が降っている。窓際のソファーに寝そべりながら、
箭兵衛は上昇感に捕らわれていた。薄暮の中でカーテンを開けたまま、
一粒一粒が容易に視認できる落下速度で降ってくる雪を眺めていると、
自分がソファーごと、いや、家ごと空に、天空に昇っていく、
そんな感覚を楽しむ機会をこの季節はいつも与えてくれていた。
雪ではなく雨だったらそうはいかないだろう。あっという間に地面に
達する雨粒では、(ソファーの背もたれで実際に地面は見えないが)
そんな感覚は得られない。だいいち音が邪魔をする。
限りなく無音の(時たま部屋のストーブの上のポットが自らの呼吸を主張
するけれども)、窓から眺める雪が与えてくれる上昇感は、
あまりにも心地良すぎて、やがて静謐のうちに箭兵衛を
いつもの眠りに誘いかけた。
先月だっけ、テレビでノーチラス号だかシーラカンス号とかいう名の
深海潜水艇が 撮影した海底の映像を、箭兵衛はたまたま見ていた。
海に棲む生命体が、その使命を終えてその残骸が沈下していく過程で
互いに離合集散し、あたかも雪の様に海底に降り注いでいくその様を、観察者は
「マリンスノー」と表現していた。
空から降ってくるスノー、海底に積もり続けるマリンスノー。
雪は空からの手紙、、、どうやらそのあたりが限界のようで、
程なく箭兵衛は眠りに落ちた。
「起きて、起きなさい、箭兵衛」
母の声がする。夕食ができたのだろうか。父が帰ってきたのだろうか。
降る雪を見ながらいつの間にか眠ってしまっていた箭兵衛は、
ソファーの上で、目をこすりながらあたりを見渡した。
奇妙な匂いがする。既に雪の残像は薄れ、徐々に周りの景色が見えてきた。
見えてき.....
ソファーの上で飛び上がりそうになりながら、涎を手でぬぐって座り直した。
そのソファーはかって我が家にあったものではなく、
ファミレスによくある今風の、メチャクチャ馴染みのないものだった。
「やっと起きてくれたね、箭兵衛さん」
幼少時の微かに甘い雪の記憶は瞬時に世界の果てに飛び去った。
何故なら、ファミレスのテーブルの向かい側のシングルシートに座って、
頬杖を突きながら、箭兵衛の寝ぼけ眼を、興味深げに覗き込んで、
どうやったら一番美味しいメニューを楽しめるか思い描いている
一見、女子高校生風の外観の異形が箭兵衛の眼に飛び込んできたからだ。
ノーチャンスの女神が再び箭兵衛の前に現れたのだ。
「御免なさいね、驚かせて。でも、お願いがあるの」
すぐさま現状を理解できなかった。
過去のノーチャンスの女神とは外観が変わっている、ていうか、
お願いって何だよ?そもそもあんたは死神でしょう?
何だよ、お願いって?
「もうすぐ注文した料理が届くわ。その前に覚悟を決めて欲しいの」
あいにく箭兵衛には女子高生の魅力を綴る語彙は持ち合わせてはいない。
若さ?髪型?表情?こんな時にチェックの制服とネクタイ?
ノーチャンスの女神が何故こんなコンタクトを取ってきたのかはわからないが、
ひょっとしたら何か面倒くさい理由があるのだろう。
「もうすぐ注文した料理が届くわ。その前に覚悟を決めて欲しいの」
その時何故か不意に箭兵衛の眼前に雪の残像が戻ってきた。
父の帰りに時間を合わせて、母が豪勢とはいえない、でも、
でき得る限り精いっぱいの夕食を父と4人の子供と祖父母の為に
こしらえ、そんな雰囲気で嗅いだ料理と空気の匂いの記憶は
箭兵衛を幼少期にかすかに引き戻しかけた。
でも、今はその匂いには大きな違和感があった。
最初の料理がファミレスのテーブルに運ばれつつある。
鼻腔で感じる違和感は最高潮に近づきつつある。
感知できる雰囲気で、店にはに他に客が誰もいないことを察した。
そのファミレスには箭兵衛とノーチャンスの女神しかいない。
それでも箭兵衛は覚悟をまだ決めていなかった。
というか、現状を把握できていない。
一機の配膳ロボットがテーブルに近づいてきた。
「お持ちしました、こちらに置いてよろしいですか?」
本来心地良いはずの電子音は調整不足で不協和音のように響いた。
違和感の元凶の料理がプレートに載って眼の前に現れた。
そしてまもなく2番目の料理も届けられた。
3番目の料理は見事にあっという間だった。
3品のお皿を目の前にして、箭兵衛はやっと嗅覚を閉ざした。
記憶の中に残っている、夢想さえする、
かっての食卓の自分を育んでくれた匂い。
それとは程遠い匂いが箭兵衛の前に提供されていた。
CAT FISHの耐え難い匂いがこのファミレスに充満していたのだ。
そこでなんとか目が覚めた。
「覚悟ですか?」
箭兵衛の絞り切るように吐き出した言葉を受けてノーチャンスの女神は
可愛らしく微笑んだ。
ホログラフを優雅に揺らめかしながら、しかし冷徹に彼女は言った。
「この戦いであなたは早々に死ぬかもしれません。それでもいいですか?」
その口調は、いや、音色は記憶の中の母の声と聴き分けることが難しかった。
条件反射的に発した自らの言葉で、箭兵衛は後に一生後悔することになる。
「お母さん、僕は自分の出来る事、やるべき事をするだけなんです」
ノーチャンスは一瞬逡巡した。ホログラフは更に妖しくゆらめいた。
夢見る様な眼差しをファミレスの窓外にしばらく向ける時間が
その時確かに存在したように箭兵衛には見えた。
「あなたみたいな息子が何人もいたわ。」
次第に増してくる悪臭と闘いながら、箭兵衛はもはや自らの意識を
保つのに精いっぱいだった。
「でも今はもう誰もいない」
そう言い放つと、黒い前髪に半分隠された猫のような眼を伏せ、
伝票をしなやかな右手で無造作に(半分怒ったような感じで)掴み上げ、
それでもその可憐さを讃えるべき嫋やかな動きでエナメルスカートを翻しながら
席を立ち上がり、一言、「払っとくから」
鈴のようなサイン波の声を残し立ち去った。というか消えた。
後編に続く