日本は韓国を植民地に等していない。
日本は韓国を植民地に等していない。韓国から申し出て日本は韓国を併合したのだ。
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韓国併合ニ関スル条約
韓国併合ニ関スル条約(かんこくへいごうにかんするじょうやく、朝鮮語:한일병합조약/韓日倂合條約)は、1910年(日: 明治43年 / 韓: 隆熙4年)8月22日に漢城府(現: ソウル特別市)で寺内正毅・統監と李完用・総理が調印し、同年8月29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」等の内容を規定した条約である。
大日本帝国は、この条約に基づき大韓帝国を併合した(韓国併合を参照)。通称は「韓国併合条約」や「日韓併合条約」。韓国では「韓日併合条約」(한일병합조약/韓日倂合條約)と呼ばれている。
調印された条約文書、並びに明治天皇と純宗がそれぞれの国に発した勅諭[注釈 1]は、大韓民国・ソウル大学の奎章閣に保管・展示されている。
条約公布に際し大韓帝国皇帝(純宗)が公布した勅諭
勅諭[注釈 1] 邦訳皇帝、若(ここ)に曰く、朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以後今日に至るまで、維新政令に関し承図し備試し、未だ曽て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望み無し、中夜憂慮善後の策茫然たり。
此に任し支離益甚だしければ、終局に収拾し能わざるに底(いた)らん、寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せいむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廊然として、自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依り仰したる、隣国大日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を強固ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。
惟爾大小臣民は、国勢と時宜を深察し、煩擾するなく各其業に安じ、日本帝国の文明の新政に服従し、幸福を共受せよ。
朕が今日の此の挙は、爾有衆を忘れたるにあらず、専ら爾有衆を救い活かせんとする至意に出づ、爾臣民は朕の此の意を克く体せよ。
隆煕四年八月二十九日 御璽[1]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84
=================ウィキより
◎韓国側から日韓併合を要求する声明所が出ているのである。
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韓日合邦を要求する声明書(かんにちがっぽうをようきゅうするせいめいしょ)は、1909年12月4日、大韓帝国で親日団体一進会が皇帝純宗・韓国統監曾禰荒助・首相李完用に送った大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書である。韓日合邦建議書(かんにちがっぽうけんぎしょ)ともいう。
略
1904年、韓国の政変により日本に亡命していた朝鮮官僚の宋秉畯は日露戦争で韓国駐箚軍の通訳として朝鮮に帰国し、韓国皇帝高宗により解散させられた開化派の政治団体「独立協会」残党の尹始炳と一進会を創設。一進会は韓国皇帝への忠誠ではなく日本政府の恩恵による朝鮮民族の独立を掲げたため、高宗は解散を命じたが、宋秉畯の後ろ盾である韓国駐箚軍により阻まれ、東学党の系列である孫秉熙・李容九らの合流を受けて全国規模の政治団体に成長する[1]。1905年11月15日に佐瀬熊鉄が起草した朝鮮を日本の保護国とする提言「一進会宣言書」の発表により、日本と連携して朝鮮の復権を目的としていた孫秉熙が離脱して、日本との合邦を推進する組織として純化していった[2]。1906年10月、李容九が日本の右翼団体「黒龍会」を率いる内田良平と会談し、日韓合邦運動が開始される[3]。1907年5月には朴斉純内閣を弾劾する政治運動を展開し、倒閣後に成立した李完用内閣では宋秉畯が農商工部大臣に起用された[2]。しかし、朝鮮総監の伊藤博文は日本陸軍と深い関係にある一進会に不信感を持っており[3]、宋秉畯は大臣を更迭されて日本に亡命することとなる。
1909年10月26日、伊藤博文がハルビン駅で大韓帝国の独立運動家の安重根によって暗殺されると、李容九は同年12月4日、一進会員との連名で、韓国皇帝純宗・韓国統監曾禰荒助・首相李完用に対し声明書を提出し、これを支持する「日韓合邦ノ先決問題」を宋秉畯が提出した[4]。
=======================ウィキより
伊藤博文は日韓併合に反対派だった。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84
=================ウィキより
◎韓国側から日韓併合を要求する声明所が出ているのである。
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韓日合邦を要求する声明書(かんにちがっぽうをようきゅうするせいめいしょ)は、1909年12月4日、大韓帝国で親日団体一進会が皇帝純宗・韓国統監曾禰荒助・首相李完用に送った大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書である。韓日合邦建議書(かんにちがっぽうけんぎしょ)ともいう。
略
1904年、韓国の政変により日本に亡命していた朝鮮官僚の宋秉畯は日露戦争で韓国駐箚軍の通訳として朝鮮に帰国し、韓国皇帝高宗により解散させられた開化派の政治団体「独立協会」残党の尹始炳と一進会を創設。一進会は韓国皇帝への忠誠ではなく日本政府の恩恵による朝鮮民族の独立を掲げたため、高宗は解散を命じたが、宋秉畯の後ろ盾である韓国駐箚軍により阻まれ、東学党の系列である孫秉熙・李容九らの合流を受けて全国規模の政治団体に成長する[1]。1905年11月15日に佐瀬熊鉄が起草した朝鮮を日本の保護国とする提言「一進会宣言書」の発表により、日本と連携して朝鮮の復権を目的としていた孫秉熙が離脱して、日本との合邦を推進する組織として純化していった[2]。1906年10月、李容九が日本の右翼団体「黒龍会」を率いる内田良平と会談し、日韓合邦運動が開始される[3]。1907年5月には朴斉純内閣を弾劾する政治運動を展開し、倒閣後に成立した李完用内閣では宋秉畯が農商工部大臣に起用された[2]。しかし、朝鮮総監の伊藤博文は日本陸軍と深い関係にある一進会に不信感を持っており[3]、宋秉畯は大臣を更迭されて日本に亡命することとなる。
1909年10月26日、伊藤博文がハルビン駅で大韓帝国の独立運動家の安重根によって暗殺されると、李容九は同年12月4日、一進会員との連名で、韓国皇帝純宗・韓国統監曾禰荒助・首相李完用に対し声明書を提出し、これを支持する「日韓合邦ノ先決問題」を宋秉畯が提出した[4]。
=======================ウィキより
伊藤博文は日韓併合に反対派だった。
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日韓併合110年…併合反対の伊藤博文を悪人と呼び、暗殺者を英雄視する韓国
正しい歴史を学ぶことができず、垂れ流される政府の虚言
110年前の1910年8月22日――。当時、漢城と呼ばれていたソウルで、日本の寺内正毅・統監と韓国の李完用・総理が「韓国併合ニ関スル条約」に調印し、同月29日、日本が韓国を併合した。110年前の夏のことを
当時、韓国併合は日本国内で賛否がわかれていた。軍閥は併合を主張し、伊藤博文など文民は反対者が少なくなかった。
19世紀後半の李氏朝鮮では、日本の支援を受けて清国からの独立を求める開化党と清国との従属関係を主張する事大党が対立していた。
朝鮮国王高宗の王妃閔氏を中心とする政権は、日本の支援を受けて開化を進めたが、これに反発した兵士らが1882年7月、日本公使館を襲撃し、日本人軍事顧問や日本公使館員を殺害した。壬午事変である。
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08231700/?all=1
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↑こういう嘘つき馬鹿と自称従軍慰安婦の嘘つき女の像を世界中に広めて大ウソを書いて立て続けて日本を卑しめる韓国とは国交断絶以外無いでしょう。