るろうに剣心
るろうに剣心という映画がテレビで放映。るろうに剣心漫画でもなんだろう…?と不思議だったけど、映画でも時代劇なのかエンタメなのか恋愛なのか、要素が濃ゆすぎて。しかもあの大物一流俳優の藤原竜也に被り物させたのはなんというイケメンの贅沢なんだと思った。ご尊顔がそのまま素晴らしいのにそんな俳優に志々雄の被り物を被せている事にいつもなんというお金の贅沢な使い方なんだ…と映画のゴージャスをそこで一番感じていた。あの志々雄は被り物だったなら、誰がやってもいいんじゃないのかと思っていた。由美と宗次郎が慕う志々雄様のあの王の器感、王のオーラ感。ああいうのはでも、大物俳優さんがやってにじみ出る雰囲気があるかもしれない。政治家を集めての会議の時、志々雄が立ち上がるや否や、宗次郎がすかさず何も言わずに刀を志々雄に差し出し、志々雄は無言でそれを感謝もせず当然と受け取り、政治家をぶった切るシーンがあったんですが、あの志々雄と宗次郎の阿吽の呼吸で連帯している感じは凄いいいいなぁ~~と感動した。そういう感じは静止画では無い作品の中のキャラクター達の内面描写だったような気がする。宗次郎と志々雄は歪んではいれども、あの言葉を交わさずとも絶妙にわかりあえてる素敵!と思ったかな。宗次郎の志々雄崇拝感はあれくらいな描写があっても然りだろうな、キャラクターの過去的に。と思ってみる。キャラクター達の性格が生き生きと再現されていた様で素敵だった。もう一シーン一シーンに色んな情報があり過ぎて映画みたら三日くらいかけて延々とそこがもう…って言い足すぎてネタバレすぎてどうしたらいいの。でもまぁ最終的に宗次郎は志々雄から裏切るというではないが、卒業するわけで。宗次郎のそういう強かなところがまぁそんなとこも含めて好きなのさ。宗次郎は剣心の影ではないのか、と思ってみた時がある。宗次郎も剣心に負けず劣らず過酷な幼少を過ごし、美形で剣士。剣心は維新志士として、宗次郎は志々雄の懐刀として、ダーティワークをなりわいにする過去を持つ。剣心も宗次郎も殺し稼業を離れてるろうする。剣心のコピーか影。と思って宗次郎を見ていた。とすると、由美さんは剣心の巴のような存在で、由美=巴なのかもしれない。という作品の想像させてくれるふり幅の広さを見て凄いいいなぁと思っていた。もう死ぬ前の最後の時期とかにもこの漫画見て色々うきうきしてるんだろうなという気がする。斎藤が日本刀を持っているというヘンテコ設定。警察という組織は言うに及ばず上位下達、杓子定規なまでに規律を重んじる、の筈だが、なぜか壬生の狼だけ日本刀、他の警察がサーベルなのに斎藤だけ日本刀。サーベルは基本が突き刺すに有利なのに、斎藤だけ日本刀、しかも日本刀で突き刺す牙突を得意としている。警察みたいなとこにいたら、「あの人だけなんで」って言われないのかな。自由過ぎるなといつも微笑ましく思ってしまう。突き刺すなら確実にサーベルがいいのに、なぜ斎藤は時代遅れの日本刀に拘り、しかもその上で牙突というサーベルに有利な分野を開拓するのか。どこか剣心が、逆刃刀にこだわって戦うような、こだわり美学を持つ点と通じるような気がする。おそらく剣心があらゆる剣士に「逆刃刀なんてなまくらで!」とか馬鹿にされてるように、色んな警察仲間やら剣客やらに「突き刺すならサーベルがいんじゃない?」って言われまくっているだろうなと想像するのは容易だ。本当になんでサーベルじゃないのだろう。剣心が殺さずを硬く誓っているように、斎藤も自分の手腕を自覚しているのかもしれない。サーベルに持ち替えたら死人が増える…と自覚してるのかもしれない。そういう意味では、日本刀を持たされた警察斎藤というのは、巨人の星で強制器具をつけさせられた飛雄馬みたいなもんか。古いな。剣心の師匠飛古清十郎も、普段から力を抑える為かトレーニング目的か、力を抑えるマントを着用しているし、何かこう、変なハンデを負わされるのが、力のある主人公の定めみたいなところが描かれていると思えて仕方ない。そう思えると、かっこいいのに、かっこよさを隠された志々雄の被り物をかぶった俳優というのも、なんだか飛古清十郎のマントに似ている気がしてくる。