きいてニコタリーナ

きよ

ちょっと整理したいんだけど

推し事について考えていたはずだった

日記


雪やばいな。
今年が大雪ってのは当たりそうね。

あとなんかコロナとかのせいか
今週部署のメンバーが揃う日のほうが少なくて
地味に忙しかった。

そして今日は今シーズン最後のブリスバー決めたかったのに
スタバ行ったら売り切れですって言われちゃった……ぴえん。

そのまま帰ったら不完全燃焼すぎるので
久々に雑貨屋とかに寄って帰った。

近況とかはそんな感じです。



さて、今日はいろいろ考えたいことがあるので
たぶん長くなります。グダグダ書きます。



元々「アイドル」とかいう存在に対して
割とモヤっとした感情を持ってるんですが。

ひとが誰か他人を過度に
崇拝・偶像化・神格化することは

「自分と同じ人間であること」
を意図的に、あるいは無意識的に
無視しているという点で

他人を見下す・差別することと
似たところがある気がしていて。

個人の見解であり異論は認めます。

相手が自分と同じく血肉と尊厳を備え
喜びも悲しみも苦痛も感じ
気分の上下も好き嫌いもある人間だということ。

目の前の他人がそういう自分と同じものを持った
同じ立ち位置の存在「ではない」
という認識は、すごくグロテスクだと思う。

(ただ、生き物の本能でもあるし、人類の歴史的に
上に見たり下に見たりして同等の存在を認めないことは
ある程度争いを避けることにもつながってたのかなとは思う。
争いはおもに同レベル同士で起こるからね)

(女性が男性の「所有物」であった時代には
男性の攻撃性は女性を所有する他の男性に向かっていたが
女性に主体性を認めた今の時代だと
攻撃性やフラストレーションが女性自体に向かうので
若い女性が殺される原因は男女関係のもつれが多いらしいよ)

かつて漫画家のよしたにさんが
「推し」という概念について

「今の若い子は最初っから
修行僧みたいな概念とともに生きてて
大変だなあ」(大意)

的なことを言ってた気がするのですが
これについてはわたし考えが逆なんだよなー。

いや、

「推し(おそらくこの場合実在のアイドル等を指す)」は
自分と同じ存在ではない

と言うのを、
「相手はビジネスで自分たちと接してくれてるんだから
こちらに見せない面に踏み込み過ぎてはいけない」
と一線を引くなら確かに自律的ストイックなんだけど

現状
「相手は自分と同じ次元の存在ではないのだから
人格を認めずコンテンツとして扱ってよい」
って取ってる人がかなりいるじゃん。
そこがすごくやだ。

同じ人間を「コンテンツ」として扱うことに対しては
すごく慎重で、自覚的でありたい。

まあ、個人的な美学の問題と言えばそうなんだけど。

そういう意味で、
実在の、同じ時代を生きている人間を「推す」ことと
非実在の二次元存在を「推す」ことは
わたしとしてはかなり意味が違うんだよなあ。

非実在のキャラクターはその空疎ゆえに
こっちの勝手な期待や妄想を
ある程度受け止めてくれるもんね。
実際に人格を棄損された、と感じる主体がない。

それでもそのキャラクターが人間に作られたものである限り、
つまりどこかしらに「公式」が存在する限り

そして「各々の解釈」がぶつかったりする限り
やっぱり「行き過ぎたファン」は出てくるけれども。

わたしはVtuberって
「向こう側に生身の人間がいる感覚」が強すぎて無理だけど、
あのアバターはファンからの過度な期待や無遠慮な視線を
良い感じにいなすペルソナではあるんだろな。



……はい。
ここまでがね、前提なんですけど。
長いね思ったより。

わたしは人間嫌い……というか人間不信で
上記の通り実在する人間を推すことには嫌悪さえあって

……でも、人形を筆頭にしたアートを通して
わたしが実際に見てるものってたぶん
「人間」なんだよなーって。

人間に興味はめちゃくちゃある。

でも実際に接触した場合の摩擦が怖い。
深い付き合いに至るまでの信頼ができない。

他人に自分の尊厳を踏みつけにされるのは腹立たしい。
自分も他者の尊厳を傷つけたくない。

他人の「所有物」になりたくない。
他人に「偶像化」されるのもごめんこうむる。
自分もうっかり他人をコンテンツ化したくない。

たぶんこのあたりの葛藤で苦しんで、
とりあえず「他人の創造物」を通して
人間性を垣間見た気になっている……?

あ、ついったーとかでよくやってる
「この人、お人柄も作るものも素敵だけど
コメントしたりして絡みに行くのは恐れ多いな……」
っていいねだけしまくってる感覚……

これも自分を下に見るフリして
実は相手をコンテンツ化してる行為だよねー
自分だけ楽しんで、相手のこと考えてないよねー
って今書きながら思った。

んんー。
ちょっとわかってきた。わかってきたぞ。

わたしは子供の頃から散々苦しんで
ようやく手に入れかけている(と感じている)
自分自身の尊厳、わたしがわたしとして存在していいんだ、
という感覚を手放したくない。

だからたぶん、自分の領域を侵されることに対して
かなりナーバスになってるんだとは思う。

ただ、一人の人間として自分の足で立つこと、
わたしは不可侵の一個人であり
あなたは対等な他者である、という在り方は

……有り体に言って、とても疲れる。

自ら思考停止して行動の規範を他者に求める人間が
いかに多いかを考えればわかる。
この生き方はかなりストレスフルなんよ。

全ての人間に平等な人権と尊厳を、と言うのは
近代において西洋で生まれた概念で
たぶん人類において自明でも普遍的でもないんだろな。

わたしのような気が小さい人間が
自覚すべき概念ではなかったのかもしれない。

「自分」を侵されたくない。
でも「自分」として立つぞと宣言してそう振る舞うなら
ものすごくタフでシビアでポリティカリーにコレクトで
あり続けなければならない。

少なくとも今の社会では。
なんなら「自分」として立ってる人間が少なすぎて
そう在るだけで他者からコンテンツ化されるリスクすらある。

なんかそういう……そういう葛藤ですよ。
要は怖いの。

人間関係について経験値が少なすぎて
コミュニケーションについて理想化しすぎている、
とも言えるかもしれない。

一人の人間として対等に、他者に向き合う自信がない。
失敗して傷ついたり傷つけたりしたら取り返しがつかない……。

あーそうか、失敗恐怖だ。

父親に何か失敗するたびに人格否定レベルで怒られてたの、
あの恐怖が未だに矯正されてねんだ。



わたしが他者をコンテンツ化することに慎重なのは、
私自身が他者から偶像化も所有もされたくないから。

わたしが他者との関わりに消極的なのは、
傷つきたくないし傷つけたら終わりだと思っているから。

かつ自分の言葉が他者に届くことを信じてないから。

なんか……潔癖だな???
無駄に父親に似てるな???

こんなに嫌いなのにな。やだやだ。



眠くなってきたので、
続きは後日考えることにします。
文字数もやばいしな。おやすみ。