ゲシュ崩ログ 220 おかあさん役
ままごとをすると、「私がお母さん役、お母さんは子ども役」と言い出す。保育園の先生みたいな口調で「さ、こどもたちっきょうのごはんはくりーむしちゅーよっ」って言ってて面白い。まだ数年足らずしか生きてないのに、すでにお母さん像というものが、子供にはあるのだろうか。能とか人間という動物とかにある大神秘にいつも興味がつきない。
イデア
脳の中にしかないものを、イデアという。アイデアの語源。ギリシャあたりの言葉だったらしい。道はローマになんとやらとか言うけれども、アメリカ英語が主流の世の中、アメリカ英語のルーツ、言語がいかに変遷していたのかを探してみるというのも面白いんではないかと思ったりする。
子供のつたないお母さん像、理想のお母さん像、ままごとで演じるお母さん像、というものは、私のマネをしている部分もあるだろうけれども、私の目から見れば「子供の演じるお母さんってこういう感じなのか」と新鮮に映る。動物を見ると、誰に教わるでもなく動物は生きてる。動物園で隔離されても生きてる。でも、人間は一人では絶対に生きられない。食事睡眠の他、生存活動に関わらない、社会的地位という曖昧で必ずしも利益に直結しないものに子供のころから価値を見出して行動しているんだな。という気がする。イデア、を大切にしている。といってもいいのかもしれない。どうしてこんな、イデアとかいう言葉を理解させる事のほうこそ難しい年代なのにもかかわらず、しっかりと自分の脳みその中にある社会的な立ち位置等の、人間の脳が感知する存在価値や自己認識等の、能の中にしかない理想というものを、人間は求めているのだろう。猿のオスなんかだと、群れのリーダーになりたい、メスを手に入れたい位の寝食以外のちょっと進んだ欲求は持ってるかもしれないけれど、その為に他の雄と闘争するかもしれないけれど、着飾ったり、良いとされる立居振舞したりと、礼節を重んじる事はしない気がする。人間が礼節を重んじるのは、イデアの為なんだろう。イデアというものは、悲しい程地球の生命体という観点からいけば無価値である。だからなんだ、腹がふくれるのか、というものである。でもそんな、子供の脳味噌にすでにあるお母さんの理想像というものが、即無意味と切って捨てるのは、なんだかどうも、どうなんだろうと思う。私も一応人間という事なんだろうか???